飛ぶ夢

ちょっと前に見た夢。

我ながらなんか好き。

 

学校のような公共空間、階段があることも知らなかったのに、階段を降りていくと、地下がある。何をかわからないけど信じ続けてさらに地下に降りると、思いがけず素敵な空間が広がっていた。信じられないくらいいい雰囲気で素敵すぎて、そんな空間が地下に存在したことに頭がこんがらがりすぎて、もはや魔法かと思った。

そこの柱に、アニメーションみたいに自分が横向きになってまるで柱が床であるかのようにてくてく歩いて登る。真ん中くらいの高さでその柱と垂直に伸びるように足で蹴る。重力が20分の1になったかのようにふわふわ漂ってゆっくり床に落ちる。蹴伸びのように、地面に水平のまま足でゆらゆらこぐことができる。それが楽しくってもう一回やってると、ちょうどその高さにある塀の向こうにいる人が私を見て、ただ柱を横に蹴って落ちようとする頭のおかしいヤバイやつだと思って駆け寄ってくるので、説明する。

小さいときにてぃぴかるな「飛べる夢」を見たことはないけど、こうやって重力が少なくなったような、ふわふわとゆっくり地上に落ちる夢、滞空時間が長くてその間にゆらゆらできる、っていう夢は見たことがある。ってそれをその夢の中で思う。

   階段を駆け下りて二段飛ばし、三段飛ばし、ってあったけど、

   小さいときの夢では大抵それを一フロア分飛ばしくらいで、

   トーーンと蹴って、シューンシュタッ、と、ふわっと着地する

   ことができた。まさに重力が軽いみたいな感覚だと思う、多分。

夢に戻ると、一人これを絶対に教えなきゃいけない、って子が思いついて、その子のもとへ走っていく。ねえ、小さいときに飛べる夢見たことある??って聞くために。私はね、大空を優雅に飛ぶような夢は見たことがなくって、私の飛ぶ夢って変わってて、、、っていう言葉が多分その後に続く、、、。

混迷を極める

寝ること、眠たいこと、夢みることについてのいくつかの考察、、、あーだこーだ思うこと。

 

眠い。どんだけ寝ても寝足りない、という時もあるけど、起きれるけどまだ起きたくない、まだ私をここにいさせて、という時ある。

朝起きてでもまだ暖かい布団の中にいる時間がむしろ夢みたいで好き。まどろみ。

起きたくない。まだ世界に出たくないのかもしれない。現実の世界に完全に越してくる手前のところにまだ留まっていたい。

夢が結構ファンタジックだからかもしれない。一応いっぱしに働いていて仕事の夢も見るけど心の奥を探るとまだおとぎ話の世界を生きているのかもしれない。はっぴーでわんだふるでまじかるな、ピンクとキラキラとふわふわの世界。

 

最近は起きてから出たベッドをベッドメイキングせずに、起きたその立体の形をそのまんまとどめるように触らずに出てくるのが流行っている。自分の中で。

自分が会社に行ってる間もその空間はそこにあって、そのまま帰ってきた後もその世界に入れそうな気がするからかもしれない。

 

まどろんでいる時に稀にある、眠りに戻されてしまってハッと起きて時計を見ると自分が思ったより時間が経っていなくて時が延びたように感じる、あの幸せ。

 

起きた時に夢がほんとだったのか、あるいはほんとに夢だったのかわからなくなることがある。本当に過去にあったことを夢にみることもあると思うから。果たしてその夢は追憶なのか、どうなのか。

あるいはしばらく経った夢と記憶がごっちゃになることがある。かつてみた夢と、かつてあったことがわからない。

そんなことがあったような気もするし、そんな夢を見たことがあるような気もする。遠い記憶が、リアルにあったことなのかそれとも夢で見たことがある気がするだけなのかわからなくなる。上の空でした会話が一番それになりやすい。あの子はああ言ってた気がする、でも記憶が遠すぎるな、、、もしかして夢か?と言った風に。

、、記憶の捏造と、夢で見た感じが多分すごく近いんだ。

でもさらには、夢だったとしても夢に見た時点で一回それは体験したことになる。夢で起きてるから体験したことではあって、夢にも見なかった場合とは違いそれが夢でも自分の現実にも完全に左右してくる。

そこまでいくともう、夢の中の出来事も、ほぼりあるってことなんじゃないかと思ってしまって、ってことは記憶の捏造も同じくらいりあるに思えてくるし、もう一歩行くと、でるーじょなるになるのではないかと混迷を極める、、、。

 

愛してやまないサウンドオブミュージックで、新しい環境に行くマリアが歌う「I have confidence」って曲 の歌詞に

strength doesn’t lie in number,

strength doesn’t lie in wealth,

strength lies in nights of peaceful slumbers

When you wake up, Wake up!

って歌詞があるけど、私は「ん?」て思ってた。強さはどちらかというと例えば、泣き寝入りした夜とか、悪夢に脅かされならがら必死に寝ようとした夜、とか、不安で眠れないまま明かした朝、とかそういったものにlieしてそうじゃない?と思って。栄光の架け橋的な。

でも起きれなくて世界と相対したくなくてファンタジーの世界との間の曖昧なところにとどまりたい、っていう願望を断ち切ってWake Up! するのが強さってことなのかな。夜は夢も見ずぐっすり寝て、朝はすっきり起きる、でるーじょなるでない健康体が強し、ということなのかしら?

もしも万が一、他にこの歌詞が引っかかっている人がいたら、聞いてみたいな。意見求む。

コマ切れその2

端切れの思想

 

ダウンジャケットは人の輪郭を大きくする。そしてその仕方がコートよりも柔らかく大きなものにする仕方。ベイマックスとか、ゴーストバスターズに出てくるマシュマロおばけみたいに。地下鉄で両隣に人が座っている席に座るのはあんま好きではない。けどその両隣がダウンジャケットだとふわっとした感触がして、さらに自分がその場所にすっぽりおさまる気がする。自分を収めたら沈んで行くから。

本来の人の輪郭の外にはみ出すようなダウンジャケット。でも押すとその本来の輪郭の方に、反発なく収まっていってくれるダウンジャケット。間にはすっぽりと座れる。

 

本屋で、まじかるなアイテムを発見してしまった。金色の、ボロボロに古びた小さな箱。あまり人が通らないしない通路の本棚の中に、面出ししてる本の狭間に。新品の本屋なのにそのボロボロな感じがすごく魔法っぽい感じを醸し出してる。魔法というか、まるで本当におとぎ話の中のアイテムか、映画の中で出てくる別世界に通じるアイテムっぽすぎる。

そんなものを見つけてしまった世界なのでそれを見つけたその世界がもうパラレルワールドに来ちゃったかと思って一瞬目を疑いつつ胸が高鳴った。

 

サウンドオブミュージックでジュリーアンドリュースが歌う歌、I have confidenceを口ずさんで駅に向かって歩いていた。駅に着いて改札をくぐってエスカレーターに乗ってる時に、ドレミの歌英語版を口ずさんでいることに気づいた。本当に気づいたら曲が変わっていた(というか次に進んでいた)ので自分でもびっくり。、、サントラ、、??もしやその間にMy Favorite Things歌ってたりした?脳内にも無意識でも慣性の法則が働くのかもしれない。進み続ける法則、というか、再生すると止まらない、、、

 

定型文を何回もタイプし続けると、そのスピードが上がって行く。何も考えずにそれを猛速でタイプしていると、文字がブワァーっと自分から湧き出てきているような気がする。

何も考えずに高速で物事をしているとその行為が思考の速度を上回る、ように感じるという錯覚?

 

お風呂で本読んでたら次の日にその本カバンに戻すのを忘れた。いつも1冊か2冊、本がカバンに入ってる。毎日、仕事に行く時も仕事から帰る時も。読まなくてただ荷物になる日も。でも最近は電車に乗った瞬間に本を開いて、開いたまんま乗り換えを2回こなし、なんならエスカレーター乗ってる間までも開いて読んでたりするのがブーム。本の世界に夢中になってそこから抜けられない小学生みたいな気分、そんなふり。
Books are power ...if you read itって書いてある栞を本屋さんでもらい、確かに、と妙に納得して最近は前よりよく本を読んでいて、そのブームもきた。本は本当に私を強くしてくれる。本当に。食べたものが骨となり血肉となり私の体が作られるように、読んだものが、いろんな知識が、いろんな世界が、いろんな小さな気持ちや考えが、私の身となる。

物理的に本を持っていないその日、電車に乗って本がない!となったその時、とても弱く感じた。今戦ったら負けちゃうような。何に?

 

 

コマ切れの思想

今までの文章たちを集めて形にした。自分なりにはかなり頑張った。

そしたらそれでかなり気が済んだのかあまり思考の泡が浮かんでこないようになった。というか、正確にいうと、小さな泡は浮き上がってくるのだけど、それを育てて大きくすべきだ、したい、という欲が減った。気がする。なので、あまり熟成されていない最近のコマ切れの思想たち。

 

私は気分屋で、気分が上下する。実は自分は安定している方だと今まで思ってきていたが最近思うにはかなり感情の起伏が激しい。楽観的でハッピーるんるんなときや、落ち込んでというよりただただダメダメになってしまって何もしたくないときの差が大きい。自分の管理ができてないなあと思う。ところでうちには小さながじゅまるがいる。名前はがじゅ。一緒に東京にも引っ越してきたし、友人からもらってかれこれ4年になった(!!驚き、、)。この前掃除をしていてふと目に入って眺めていたら、はっと気づいた。葉っぱが薄い、、!!!!と思う!!!確かに、水やりをしばらく忘れていたりしてしまっているし、毎日気をかけたりなんて全くできていない。がじゅ!!ごめん。。!!!!!ああ、、、、。でも、そうだよなあ。植物のコンディションを整えられない人間が、自分のコンディションを管理できるわけないんだよな、、。植物の葉っぱさえ薄くさせてしまうのなら、自分だって薄くなってるわな、、。

 

家の近くで見た文言。Flying Alice and Heavy Children。どういうことだろう、、、。まずFlying Alice?ピーターパンの方が頭に浮かんでくる。永遠に子供で、ネバーランドにいて、軽々と空を飛ぶピーターパンと、ピクシーダストをかけてもらって飛べるようになる、大人になる宿命を逃れられないウェンディたち人間の子供。でもアリスは穴に落ちて不思議の国に迷い込んでしまった女の子。不思議の国にいた、塀から落ちてしまったハンプティダンプティは重たそうだ。Heavy Childrenは重たくて飛べないのだろうか。飛べないのではなく、考え方が固まってるとかそういうメタファーだろうか。でもアリスって飛ぶっけ?アリスってどうやって飛ぶの?別のアリス?、、、

 

日本で売ってる英文字の入った商品の英文ってすっごく変なのがある。Tシャツやトレーナーとか、ポーチとか。英語がわかるようになってから、そんなのを冷めた目で一歩引いて見ては、うわ〜変なの書いてあるの着てるな〜〜って思って着た。文法がおかしいのとかもあれば、青臭いセリフのものもある。ストレートにポジティブすぎるというか。前者は間違ってるな〜って思うけど、後者はなんかださいというか、、。でもある日疲れが取れてない平日朝、会社へ向かう電車の乗り換えの際に前の人が持ってるトートバッグが目に入った。Make Every Day the Best in your Life! ああ、持ってる人のためのくさいセリフではなくって、こういう時にふと誰かの目に止まってその人に元気付けるためにあそこまで妙に自己肯定的なセリフが装われているのかー、なんて妙に納得したり。今自宅の机の上にずっと開けずに置いてある缶のお茶がある。ケバブ屋さんがくれたそのお茶はなんかほっこり優しい。「心が渇けばお茶が良い。一服一福一休み。」

 

体力がない。ずっと外にいたらしんどくて、土日のうちのどっちかの半日以上は家でぐでっとしてる時間がないと、倒れかけている何かがもう一回しゃんと立たない。体力よりはマインドの問題か?マインド/心の問題というか、自分のとっての不足かつ必要要素?体が弱いというよりは自分の時間と場所が必要で、それが補充できないと整わないという弱さなのか。自分を自分に立て直す時間?

 

シャワーヘッド押し込めばもうちょっと入る論。シャワーヘッドを手で持って洗っていたのをその途中で元の位置に戻したくて壁についてるホルダー的なところに入れる。そのままシャワーから水を出す。するとシャワーヘッドの向きが変わっていってシャワーが当たるところがこちらが欲しい位置とずれてしまう。もう一回シャワーヘッドをホルダー的なところに入れ直す。それでもなんかずれていく。なんなんだ、と思いながら何回かのホルダー的なところに入れ直す。シャワーヘッドが勝手に動いて行かなくなるまで何回か入れ直す。たまにはこちらが根負けして自分が位置をずれてシャワーが当たるところに行く。、、のだけど、最近した大発見。シャワーヘッドがずれて行く時、シャワーヘッドをホルダー的なところに入れてさらに下にぐっと押し込めば動かなくなる!!!より固定される!!この年になるまで思ったことなかった。シャワーが動かなくなるまでご機嫌を伺うように入れ直してたのに、たったのちょいと押すだけワンプッシュでこちらの思う次第だなんて!!この発見は概念的になんかいろんなことと繋がりそう。この論は発展の余地あり。

方向音痴が過ぎる

京都にいるときは「碁盤の目」のおかげで、まだ大丈夫だったのよ、それでも相当ひどかったけど。こっちが北か、とわかると、あっちが東で、あっちが西、こっちが南、ってわかってきて、そうすると鴨川を中心として自分は今ここら辺にいるから、目的地は大体どっちの方向か、なんてことがわかる。(何言ってんだか、当然の話。)それで、私でも辛うじてなんとなくの方向感覚を掴めて、あとはどの道を通ると間違いなく目的地につけるか、の問題になる。でも、その肝心の、どっちが北なのか、ということが自分じゃなかなかわからないんだ。コンパスって回してもその中の針は北を刺し続ける、壊れてなければ。私の脳内コンパスは完全に壊れていて、自分の方向が変わると、常に一方向を刺しているはずの指針が、狂ってしまう。建物に入ってエスカレーターに乗って一階上がり、もう一階上がる時に体の向きを変える、その時点でもうぱっぱらぱ〜〜、手に負えない。もう、針は北を刺し続けることを諦めました、、降参です、、、。

それが、京都じゃないところに来ると、道が東西南北と垂直に交わっているわけではなくて、つまり曲がるたびに直角ではなくて困り果てる。曲がる角が、ここでも、次でも、その次でも、曲がる回数が違うだけで、カクカクと目的地にたどり着けばいいわ、って話じゃなくなってくる。そうすると私にとってはもう、行きたいと思ってコンパスを合わせたはずが、元からずれてた、みたいな感じになって、なんとなくの方角がこっちだからそろそろこっちに曲がらなきゃいけないな、ってときに検討ハズレの方に行ったりするの。

で、地図アプリを開くと、案の定間違えているんだけど、見ても納得できないのよそれが。頭の中でもう一回、出発地点と今までたどってきた道を思い浮かべ、終着地点を脳内マップの上におくのだけど、そうするとどうも、あっちに行きそうなのに、アプリはこっちにいけという、、、。まあ私が正しいことは100パーないから従うんだけど。

本当にわけわかんなくなって、この世界のどこに私はいるの??ってなるんだよね。ビックリハウスで空間がゆがんだように感じるアレに似ているのかもしれない。地図も自分が通ってきた道もゆがんでるように思えてきて、不思議の国みたいにどこからこんな空間出てきたのよ、っていう。それで、自分が崩壊しそうになる危機的な状況から頭は思考をやめて、大人しくアプリか、他の人に従うことにする。本当に地図アプリ様様だ、手放せない。

そんなわけで、散歩がまともにできない。いつも見当違いの方向に行くことを恐れながら、一応地図アプリを確認し確認し、恐る恐る歩く。

でも本当は私が好きなのは、自由奔放に歩き回っていろんな風景を見て、いろんな店をチェックしながらするそぞろ歩き。それなら地図アプリはいらないじゃん、と思われるかもだけど、いろいろみたいと欲張り過ぎるからこそ、逆に方向がわかっていないと縛られてしまうのだ。欲張りでいうと、私はとても食いしん坊でもある。ビュッフェに行っていろんなものを食べたくって取ってる最中はすごく楽しくて嬉しくって、でも最終的に食べれなかった、なんて夢もみる。散歩でも楽しそうな道は全部通りたくて、いろんなものを何一つ漏らさずに見たい。歩いているときも、素敵なお店っぽい雰囲気があったら、見たくて、道順的には右に曲がるところだけど、ほんのちょっとだけ左に行って、戻る、ってことをよくするし、立ち止まってゆっくり見たりも、わざわざ交差点を渡って少し戻ってチェックすることもよくある。自転車ではそういうことができないから急ぐとき以外はあまり好きではないし、しかも自転車に乗っていても新しい道だとついそれをやってしまうから自分は危ないと自覚している。だから自転車に乗っているときは誰かについていくのが一番だ。歩いているときだって、誰か道を知っている人が率いてくれて、その中で私は進路を心配せずにキョロキョロ見渡したりして興味を引くものがあれば、勝手にその方に歩いて、連れを困らせるくらいが一番ちょうどよく楽しいのです、、汗

注意力散漫になっていろんな方向に目を凝らしてしまうこと、それは発散行為かもしれないけど、視点を変えると、同時に、収拾行為でもあるだろう。持っているものをどれだけ散らして行くかが、自分を薄くしていろんなところに行き渡らせ、広い範囲で知覚を働かせること。それは同時に、いっろんなものを掬っていきたい、という願望の現れ。いろんなものをどれだけ自分の上に積んで乗せていけるか、という感じ。

人生においてもそんな感じなのかもしれない、学問も広く浅く学んできたし、学部を決めるのができなくて、仕事もがっつり何かを選ぶことができなかった。その道を一直線に進むことが怖くて、まわりの小道や路地に全部入って網羅しないと気が済まないような気がして、いつでも一つの道を突き進むような選択を恐れてしまうのかもしれない。そんなことをやってたら、大まかな方向がわからなくなってしまって、自分はこの世界の中の一体どこにいるんだろう、、、と。というか世界はそもそもどんな形をしているのだっけ、なんて。

でも方向音痴だからこそ、いろんなお店とかを集中して覚えておきたいという面もあるかもしれない。注意を払ってないと、その場所には二度と戻れず、永遠に神隠しにあうようなことになってしまうかもしれない。一度見つけたものが、目を逸らしたらもう自分には感知できない場所、見えない袋の中に閉じ込められてしまうような気持ちで、それを逃したくなくてそんなに必死に目を凝らしているのか、、。

愛のドーム

大好きな友達が、随分前に、あなたにとって「旅」とはっていう企画をしてくれた。

知らない土地に足を踏み入れるとき、初めて出会った人と微笑みを、会話を交わす時、それは私の中で何かを押し広げている。私の中のその”感じ”を言い表そうとすると、「愛のドーム」っていう言葉が出てきた。

旅をした時に、そこに自分が行ったっていう跡を残すだけじゃなくて、薄いふわっとした膜的なものが上から覆うような感覚。保育園の時にパラバルーンってのをやったけど、それみたいなふわっと上から自分の上を覆ってしまうようなもの。それが愛のドームを広げるような。

 

そのイベントでその子ともう一人別の子と喋ったのは、それが3人の出会いのきっかけでもあったインドでの体験。10日間で子供達とミュージカルを1から作るというプログラム。

そのミュージカルを作る間で、一緒に居たインドの子供達一人一人と、言葉はそこまで通じなくとも、10日間共に遊んで、触れ合って、学んで、創り上げて、すっごく心と心のつながりができた気がした。もしかしたら言葉のつながりが薄かったからこそのその心のつながりをとても深く感じたかもしれない。

そんなに尊いかけがえのないつながりができたというのに、インドの6歳〜11歳くらいの子供達とそれ以降繋がり続けたりする手段はなく、学校を通してたまに交流できるかもしれない、というレベル。その子たちに会いにまたいつかインドに行きたいとは思うものの、行った時に会えるのかは不確実だ。女の子たちはお嫁に行ってしまうかもしれないし、どこに行ったかわからない子だっているだろう。次あったときは忘れているかもしれないし、忘れていなかったとしても、無邪気に遊んだあの十日間には絶対に戻れない、その関係性にも戻れないかもしれない。

でもその子達が、どこに行ったとしても、もう会えなかったとしても、忘れちゃったとしても、もし万が一死んじゃったとしても、(縁起でもない)その子らは私の愛のドームの中にいる。そのドームの中でどんな風に動いたかは私に把握できないこともあるかもしれないけど、それでも私の意識か無意識(?)が及ぶ、そんな膜状のドームのようなものの中にはいるような気がする。私の側が忘れちゃったとしても、これは誰に対してでも、ドームの中の個々に知覚が及ばなくなったとしても、そのドームはもう、上から個々を全部覆ってしまっちゃっているから、どうしようもないの。一旦ドームがその上に広がればその傘下のものたちはずっとその覆われたまんま。だからある意味では心配する必要がない。そんな感じ。

それで、旅っていうのは知らない土地に足を踏み入れる、初めて出会った人と微笑みを、会話を交わす、そんなことをしながら、それはとどのつまり私にとってそんな愛のドームを広げている行為だと思ったの。より多くのものをドームの傘下に入れに行くような。

 

さらに言えば愛のドームを広げているというのは旅に限らない。(まあ人生は旅だ、なんていうから逆に人生が愛のドームを広げることかも、、って視点もあるね。)隣の行ったことのない街を歩き回ってみる。話したことない人と話してみる。新しいものに興味を持ってみる。旅はドームが覆う地球上の表面積を広げていくようなイメージだけど、もっと概念的な、平面では測れないようなドームの広がり方もあるような。

例えばドームが覆う表面積を広げて行く中で、ちょっと掘れるところもあるとおもう。そこに自分がいっときの間滞在できるような、腰掛けれる程度のスポットを、深みを作ることも。どんな方向にもどんな形にもドームを広げることはできて、広げれば広げるほど、なんとなく自分がしっかりとしてくる。自分に自信が出てくる、とかではなくて何とは無く安心感がある、みたいな。自分が住むこの地球上に自分のドームが侵食して広がれば広がるほど地球全体がよりほっとできる場所になるのだろうか。これは自分のコンフォートゾーンにステイしているだけでは不可能だ。

だから前の記事に書いたみたいに(↓)新しい街に引っ越してきてひりひりしている私は、会社に行く前に近くの大学のキャンパスをうろついて見たり、お昼を一人で早く済ませた日に同じビル内の本屋の内装ラインアップを冷やかしに行ったり、している。自分で一歩一歩、ドームを広げて行けれるように。ドームの範囲が伸ばされていくたびに、この街で日々を生きる気持ちがなんとなく少し暖かくなっていけばいいな、と思って。

 

 

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圧縮された魔法の小石

書きたいことが考えたいことがなんとなくあって書き出して、でもどうにも続かなくなって、いつ続きを終わらせるかという見通しとかもないままただ下書き保存して放置していた以下の文章。それをもう一回思うことがあって、再び取り出した。

 

アイフォンの容量がいっぱいになった。容量のほとんどを写真が占めているので、一年半分くらいの大量の写真をどうにかしなくてはいけない。友達がみんな使っているGoogle Photoを使う時が来たか、と思ってGoogle Photoをダウンロードした。写真が自動的にアップロードされてゆき、バックアップもしたので端末から写真を消していいですよ、という通知がくる。でも昔の写真が全くなくなるのは寂しい。でも容量をあけるためにこの作業をしているのだから、写真を削除していくしかない。

 

一年以上前の下書きだと思う。この時は何かよくわからないけどなんだかどうしようもない寂しさみたいなものを感じて、この虚しさを不思議に思って書いた。けど書き始めて見るとわからなくなった。

今回また書こうと思ったことも理由は全く同じ。今度はamazon photo。また携帯の容量が少なくなってきた。正確にいうと携帯のiOSを(かなり古いもののままだった)バージョンアップするための容量がなかったみたい。容量的にはまだいけた(笑)が、iOSをアップデートしなくてはいけない諸事情ができてしまい、不本意ながら容量を減らす羽目になった。

写真はちゃんとamazonクラウド上に保存したことになってる。一年前のものもgoogle photoをひらけばちゃんと出てくる。もしそのクラウドに、あるいはクラウドへのアクセス方法に何か不具合が起きてそこに閉じ込めたたくさんの写真と思い出が見れなくなったらどうしよう、と思うけど、amazongoogleだから大丈夫だよ、と友人には笑われた。そして確かに、アナログで紙のアルバムを作ったりしても火事で燃えちゃったりとか、紛失したりとか、しうるだろうし、その可能性はgoogleamazonが倒れるのと同じくらいな気がする。じゃあ何がこんなに虚しいのだろう、、。バックアップされたとはいえ、体感的に写真を削除するという動作自体が、どこかに保存されているとはいえ、自分の目の前の画面から一瞬で多くを消去している自分が、寂しいのだろうか。アナログで紙のフォトアルバムを作るとしたらここまで寂しくならないような気がする。

写真たちを開いて見るのが少し手間になるのが嫌なんだろうか。奥の方にしまわれてしまう感じがするのが。でもどっちにしろそんな膨大の数の思い出を見ることはそんなにないだろうし、それを思い出して見たくなったときには見るだろうし。それは紙のフォトアルバムでも同様だろうし。実際に5年間つけている日記も、大体見返して読んだりすることはほぼない。でもそれでも続けている。

思い出の縁(よすが)が物理的に質量もなく、色のピクセルで分解されてしまう画面上のものになってしまうのが悲しいのだろうか。でもそれは写真を撮るのが携帯である現代においては、生成された瞬間からそうであるはずなのに。

前も辿ったこんなところをまたぐるぐる考えて、そもそも時間は不可逆的で(最近、時間は不可逆的ってことがよく頭をよぎる、この単語がふと脳内にポップアップしてくる。)それを永遠に記憶することは無理で、写真でかすかにとどめておこうとしている、それすら儚くて虚しいもんだと思った。そして、魔法を使おうとしてるみたいなもんだと思った。

ミックスジュースって歌あったな、いろんなものを全部ミックスジュースにしてしまう歌。

〜ぼくのミックスジュース〜

おはようさんの大声と、キラキラキラのお日様と、それに昨夜の怖い夢

みんなミキサーにぶち込んで、朝はミックスジュースミックスジュースミックスジュース

 

ミックスジュースとはちょっとイメージが違って、どちらかというと小さな小石のような宝石にするイメージかな。魔法の杖をふるってその人の時間や思い出を全部まとめて圧縮してコロンとした小さな結晶のようなものにする。結晶の形になってしまう前のその中身がどんなものだったかはわからないかもしれない。忘れてしまうかもしれない。でもそんな時があったと、キラキラする大事で忘れたくないような時があったということは手元に残る。手元に残ったその小石がトークン(しるし、記念の品)となる。そんなようなプロセスに、写真をなんらかの形でまとめて残しておこうとする作業はなっているのかもしれない。圧縮されているかは別として。写真をクラウドで保存するという行為も、その形質に変わりはない。ただ、クラウド上に写真を保存して、さらに端末から写真を削除するときに、そのトークン的なもの、一つの小さな結晶のようなものが少しの重みも丸みも触り心地もなくなってしまうということが虚しいのかもしれない。なんならそうやって魔法をかけて形を変換されてしまうということ自体よりもさらに。その生成されたものの特徴のなさが。逆に今までは端末の重みがなんだかその重さと感じる錯覚を起こしていたような気がする。

でもクラウド上に写真をあげる作業は、例えるならば古くなってしまったものをもうあまり見ない棚の上にあげてしまうような行為だ。けどそれに意味がないとは感じなくなった。だってそれは現代における、魔法をかけて圧縮して宝石にするような作業だと思うから。ただ現代においては魔法も進化して、ただ圧縮されて宝石になるのではなくて、呪文を唱えると魔法のブックが現れてそれでさらに呪文を唱えると(パスワード)それが閲覧できるようになる。、、、感じ? でもやっぱ魔法の小石も捨てがたいな、、、。

 

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