愛のドーム

大好きな友達が、随分前に、あなたにとって「旅」とはっていう企画をしてくれた。

知らない土地に足を踏み入れるとき、初めて出会った人と微笑みを、会話を交わす時、それは私の中で何かを押し広げている。私の中のその”感じ”を言い表そうとすると、「愛のドーム」っていう言葉が出てきた。

旅をした時に、そこに自分が行ったっていう跡を残すだけじゃなくて、薄いふわっとした膜的なものが上から覆うような感覚。保育園の時にパラバルーンってのをやったけど、それみたいなふわっと上から自分の上を覆ってしまうようなもの。それが愛のドームを広げるような。

 

そのイベントでその子ともう一人別の子と喋ったのは、それが3人の出会いのきっかけでもあったインドでの体験。10日間で子供達とミュージカルを1から作るというプログラム。

そのミュージカルを作る間で、一緒に居たインドの子供達一人一人と、言葉はそこまで通じなくとも、10日間共に遊んで、触れ合って、学んで、創り上げて、すっごく心と心のつながりができた気がした。もしかしたら言葉のつながりが薄かったからこそのその心のつながりをとても深く感じたかもしれない。

そんなに尊いかけがえのないつながりができたというのに、インドの6歳〜11歳くらいの子供達とそれ以降繋がり続けたりする手段はなく、学校を通してたまに交流できるかもしれない、というレベル。その子たちに会いにまたいつかインドに行きたいとは思うものの、行った時に会えるのかは不確実だ。女の子たちはお嫁に行ってしまうかもしれないし、どこに行ったかわからない子だっているだろう。次あったときは忘れているかもしれないし、忘れていなかったとしても、無邪気に遊んだあの十日間には絶対に戻れない、その関係性にも戻れないかもしれない。

でもその子達が、どこに行ったとしても、もう会えなかったとしても、忘れちゃったとしても、もし万が一死んじゃったとしても、(縁起でもない)その子らは私の愛のドームの中にいる。そのドームの中でどんな風に動いたかは私に把握できないこともあるかもしれないけど、それでも私の意識か無意識(?)が及ぶ、そんな膜状のドームのようなものの中にはいるような気がする。私の側が忘れちゃったとしても、これは誰に対してでも、ドームの中の個々に知覚が及ばなくなったとしても、そのドームはもう、上から個々を全部覆ってしまっちゃっているから、どうしようもないの。一旦ドームがその上に広がればその傘下のものたちはずっとその覆われたまんま。だからある意味では心配する必要がない。そんな感じ。

それで、旅っていうのは知らない土地に足を踏み入れる、初めて出会った人と微笑みを、会話を交わす、そんなことをしながら、それはとどのつまり私にとってそんな愛のドームを広げている行為だと思ったの。より多くのものをドームの傘下に入れに行くような。

 

さらに言えば愛のドームを広げているというのは旅に限らない。(まあ人生は旅だ、なんていうから逆に人生が愛のドームを広げることかも、、って視点もあるね。)隣の行ったことのない街を歩き回ってみる。話したことない人と話してみる。新しいものに興味を持ってみる。旅はドームが覆う地球上の表面積を広げていくようなイメージだけど、もっと概念的な、平面では測れないようなドームの広がり方もあるような。

例えばドームが覆う表面積を広げて行く中で、ちょっと掘れるところもあるとおもう。そこに自分がいっときの間滞在できるような、腰掛けれる程度のスポットを、深みを作ることも。どんな方向にもどんな形にもドームを広げることはできて、広げれば広げるほど、なんとなく自分がしっかりとしてくる。自分に自信が出てくる、とかではなくて何とは無く安心感がある、みたいな。自分が住むこの地球上に自分のドームが侵食して広がれば広がるほど地球全体がよりほっとできる場所になるのだろうか。これは自分のコンフォートゾーンにステイしているだけでは不可能だ。

だから前の記事に書いたみたいに(↓)新しい街に引っ越してきてひりひりしている私は、会社に行く前に近くの大学のキャンパスをうろついて見たり、お昼を一人で早く済ませた日に同じビル内の本屋の内装ラインアップを冷やかしに行ったり、している。自分で一歩一歩、ドームを広げて行けれるように。ドームの範囲が伸ばされていくたびに、この街で日々を生きる気持ちがなんとなく少し暖かくなっていけばいいな、と思って。

 

 

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