圧縮された魔法の小石

書きたいことが考えたいことがなんとなくあって書き出して、でもどうにも続かなくなって、いつ続きを終わらせるかという見通しとかもないままただ下書き保存して放置していた以下の文章。それをもう一回思うことがあって、再び取り出した。

 

アイフォンの容量がいっぱいになった。容量のほとんどを写真が占めているので、一年半分くらいの大量の写真をどうにかしなくてはいけない。友達がみんな使っているGoogle Photoを使う時が来たか、と思ってGoogle Photoをダウンロードした。写真が自動的にアップロードされてゆき、バックアップもしたので端末から写真を消していいですよ、という通知がくる。でも昔の写真が全くなくなるのは寂しい。でも容量をあけるためにこの作業をしているのだから、写真を削除していくしかない。

 

一年以上前の下書きだと思う。この時は何かよくわからないけどなんだかどうしようもない寂しさみたいなものを感じて、この虚しさを不思議に思って書いた。けど書き始めて見るとわからなくなった。

今回また書こうと思ったことも理由は全く同じ。今度はamazon photo。また携帯の容量が少なくなってきた。正確にいうと携帯のiOSを(かなり古いもののままだった)バージョンアップするための容量がなかったみたい。容量的にはまだいけた(笑)が、iOSをアップデートしなくてはいけない諸事情ができてしまい、不本意ながら容量を減らす羽目になった。

写真はちゃんとamazonクラウド上に保存したことになってる。一年前のものもgoogle photoをひらけばちゃんと出てくる。もしそのクラウドに、あるいはクラウドへのアクセス方法に何か不具合が起きてそこに閉じ込めたたくさんの写真と思い出が見れなくなったらどうしよう、と思うけど、amazongoogleだから大丈夫だよ、と友人には笑われた。そして確かに、アナログで紙のアルバムを作ったりしても火事で燃えちゃったりとか、紛失したりとか、しうるだろうし、その可能性はgoogleamazonが倒れるのと同じくらいな気がする。じゃあ何がこんなに虚しいのだろう、、。バックアップされたとはいえ、体感的に写真を削除するという動作自体が、どこかに保存されているとはいえ、自分の目の前の画面から一瞬で多くを消去している自分が、寂しいのだろうか。アナログで紙のフォトアルバムを作るとしたらここまで寂しくならないような気がする。

写真たちを開いて見るのが少し手間になるのが嫌なんだろうか。奥の方にしまわれてしまう感じがするのが。でもどっちにしろそんな膨大の数の思い出を見ることはそんなにないだろうし、それを思い出して見たくなったときには見るだろうし。それは紙のフォトアルバムでも同様だろうし。実際に5年間つけている日記も、大体見返して読んだりすることはほぼない。でもそれでも続けている。

思い出の縁(よすが)が物理的に質量もなく、色のピクセルで分解されてしまう画面上のものになってしまうのが悲しいのだろうか。でもそれは写真を撮るのが携帯である現代においては、生成された瞬間からそうであるはずなのに。

前も辿ったこんなところをまたぐるぐる考えて、そもそも時間は不可逆的で(最近、時間は不可逆的ってことがよく頭をよぎる、この単語がふと脳内にポップアップしてくる。)それを永遠に記憶することは無理で、写真でかすかにとどめておこうとしている、それすら儚くて虚しいもんだと思った。そして、魔法を使おうとしてるみたいなもんだと思った。

ミックスジュースって歌あったな、いろんなものを全部ミックスジュースにしてしまう歌。

〜ぼくのミックスジュース〜

おはようさんの大声と、キラキラキラのお日様と、それに昨夜の怖い夢

みんなミキサーにぶち込んで、朝はミックスジュースミックスジュースミックスジュース

 

ミックスジュースとはちょっとイメージが違って、どちらかというと小さな小石のような宝石にするイメージかな。魔法の杖をふるってその人の時間や思い出を全部まとめて圧縮してコロンとした小さな結晶のようなものにする。結晶の形になってしまう前のその中身がどんなものだったかはわからないかもしれない。忘れてしまうかもしれない。でもそんな時があったと、キラキラする大事で忘れたくないような時があったということは手元に残る。手元に残ったその小石がトークン(しるし、記念の品)となる。そんなようなプロセスに、写真をなんらかの形でまとめて残しておこうとする作業はなっているのかもしれない。圧縮されているかは別として。写真をクラウドで保存するという行為も、その形質に変わりはない。ただ、クラウド上に写真を保存して、さらに端末から写真を削除するときに、そのトークン的なもの、一つの小さな結晶のようなものが少しの重みも丸みも触り心地もなくなってしまうということが虚しいのかもしれない。なんならそうやって魔法をかけて形を変換されてしまうということ自体よりもさらに。その生成されたものの特徴のなさが。逆に今までは端末の重みがなんだかその重さと感じる錯覚を起こしていたような気がする。

でもクラウド上に写真をあげる作業は、例えるならば古くなってしまったものをもうあまり見ない棚の上にあげてしまうような行為だ。けどそれに意味がないとは感じなくなった。だってそれは現代における、魔法をかけて圧縮して宝石にするような作業だと思うから。ただ現代においては魔法も進化して、ただ圧縮されて宝石になるのではなくて、呪文を唱えると魔法のブックが現れてそれでさらに呪文を唱えると(パスワード)それが閲覧できるようになる。、、、感じ? でもやっぱ魔法の小石も捨てがたいな、、、。

 

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