思考の空気抵抗

映画を見た後のしばらく余韻に浸る時間、あれは私にとって飴玉を口の中で転がす感覚と通じるものがある。映画館を出て、体は日常の世界に戻り、頭の中では、寒いな、とかご飯どうしようか、と浮かび上がってくる現実の感覚と、見た映画についてぼんやりと考える思考が混ざり合う。一つの答えや解釈を求めるわけではなく、頭の中でさっき見たいろんなシーンに飛んで、あのシーンのあの描写はあれがモチーフなんだろうか、とかあそこに出てきたあのアイテムはなんの意味があったんだろう、とか、どちらかというと細部の小さな事柄にちょっとずつ思いをはせる。飴玉を口の中であっちにコロコロ、こっちにコロコロしながら舐める感じ。飴玉は外の空気に触れず、私の中で消えていく。同じようにそれらの色々考えたことは、別にどれにも答えが出るわけでもなく、私がふわっと思ったまま、そのままだんだんと消えていく。

 その感じはあの情景とも似てるかもしれない。軽い羽が落ちるときに、上から下に向かって落ちるのだけど空気抵抗によってあっちにひらっと、こっちにひらっとしながら舞い落ちてくる感じ。結局落ちてはしまうんだけど、地上に辿りついてしまうことを惜しむように、空中にいる間にふらっふらっと寄り道をしながら落ちる。

 映画についてはストーリーのあらすじや、大きなテーマはもちろんあるし、監督のメッセージや意図もあるだろう。でもそれらの解釈をすぐに検索してしまうのはもったいない気がしてしまう。何かを感覚で受け取って、それについて考えるときには、自分しか気づかないような何かだったり、自分しかそこにそれを感じないだろうという特別な何かがあるだろうけど、それらが大きなものに巻き込まれて忘れられてしまう、あるいは気付かれにくくなってしまうから。一つのものを探し求めることは、解を絞り出すことであって、実は絞り出されたもの以外が、あなたオンリーの、特別なものになりうるのに、それらの微々たるオリジナルに注目がいかなくなってしまう。

 とっても大雑把な言い方をすると、私たちみんなこの世に生まれた人間だから、多少の違いはあれど、大まかな考え方や思うことってだいたい似ているだろう。(何か思ったことがあっても、絶対誰かは似たようなことを考えているし、先人もいる。)スペシャルなオリジナリティーが現れうるのは、大きな流れに沿いつつも、その中で生じた小さな小さな差異に心を割くときなのではないかな、と思う。

 大きな道に沿って歩く中で、たまに横道に逸れて、誰も入った痕跡がない土に足跡をつけてくる。少し寄り道して、果てしなく小さくてもいいから、自分だけの、自分が作り出した場所を持たせることが大事なのではないだろうか。(そしてもしそれが人に伝わったら、他の人の作った場所と繋がったら、それはちょっとだけより豊かなものになるかもしれない。昔の人たちが昔話を聞き伝えていく過程で独自の語り方をしたり、勝手な好みでちょっとした付け足しをしてだんだんと尾ひれがついていったように。)

 映画の感想も、誰にも言わなくても、あのシーンのあの場面のあの人があの動作をしていてあの表情の後ろにあれが写っているその意味、なんていうことをふわっと思えたら愛が芽生えて万歳。そんな記憶もいずれ忘れてしまっても、飴玉が後味だけを残して消えてしまうように、愛だけは残っていくだろう。(究極的には人生において個々の事柄は忘れてしまっても、自分が作り出した場所に対して生まれた愛という形無きものが集合して世界が愛溢れるものになっていくんじゃないか、なんて。)大きな発明でも、探し求めた問いの答えでもなくても、ひらっと予想外の動きをして自分だけの思考を育てたい。舞い落ちる羽を落ちる前に左右にひらめかせ空中に留める空気抵抗のようなものを大事にしていきたい。