方向音痴が過ぎる

京都にいるときは「碁盤の目」のおかげで、まだ大丈夫だったのよ、それでも相当ひどかったけど。こっちが北か、とわかると、あっちが東で、あっちが西、こっちが南、ってわかってきて、そうすると鴨川を中心として自分は今ここら辺にいるから、目的地は大体どっちの方向か、なんてことがわかる。(何言ってんだか、当然の話。)それで、私でも辛うじてなんとなくの方向感覚を掴めて、あとはどの道を通ると間違いなく目的地につけるか、の問題になる。でも、その肝心の、どっちが北なのか、ということが自分じゃなかなかわからないんだ。コンパスって回してもその中の針は北を刺し続ける、壊れてなければ。私の脳内コンパスは完全に壊れていて、自分の方向が変わると、常に一方向を刺しているはずの指針が、狂ってしまう。建物に入ってエスカレーターに乗って一階上がり、もう一階上がる時に体の向きを変える、その時点でもうぱっぱらぱ〜〜、手に負えない。もう、針は北を刺し続けることを諦めました、、降参です、、、。

それが、京都じゃないところに来ると、道が東西南北と垂直に交わっているわけではなくて、つまり曲がるたびに直角ではなくて困り果てる。曲がる角が、ここでも、次でも、その次でも、曲がる回数が違うだけで、カクカクと目的地にたどり着けばいいわ、って話じゃなくなってくる。そうすると私にとってはもう、行きたいと思ってコンパスを合わせたはずが、元からずれてた、みたいな感じになって、なんとなくの方角がこっちだからそろそろこっちに曲がらなきゃいけないな、ってときに検討ハズレの方に行ったりするの。

で、地図アプリを開くと、案の定間違えているんだけど、見ても納得できないのよそれが。頭の中でもう一回、出発地点と今までたどってきた道を思い浮かべ、終着地点を脳内マップの上におくのだけど、そうするとどうも、あっちに行きそうなのに、アプリはこっちにいけという、、、。まあ私が正しいことは100パーないから従うんだけど。

本当にわけわかんなくなって、この世界のどこに私はいるの??ってなるんだよね。ビックリハウスで空間がゆがんだように感じるアレに似ているのかもしれない。地図も自分が通ってきた道もゆがんでるように思えてきて、不思議の国みたいにどこからこんな空間出てきたのよ、っていう。それで、自分が崩壊しそうになる危機的な状況から頭は思考をやめて、大人しくアプリか、他の人に従うことにする。本当に地図アプリ様様だ、手放せない。

そんなわけで、散歩がまともにできない。いつも見当違いの方向に行くことを恐れながら、一応地図アプリを確認し確認し、恐る恐る歩く。

でも本当は私が好きなのは、自由奔放に歩き回っていろんな風景を見て、いろんな店をチェックしながらするそぞろ歩き。それなら地図アプリはいらないじゃん、と思われるかもだけど、いろいろみたいと欲張り過ぎるからこそ、逆に方向がわかっていないと縛られてしまうのだ。欲張りでいうと、私はとても食いしん坊でもある。ビュッフェに行っていろんなものを食べたくって取ってる最中はすごく楽しくて嬉しくって、でも最終的に食べれなかった、なんて夢もみる。散歩でも楽しそうな道は全部通りたくて、いろんなものを何一つ漏らさずに見たい。歩いているときも、素敵なお店っぽい雰囲気があったら、見たくて、道順的には右に曲がるところだけど、ほんのちょっとだけ左に行って、戻る、ってことをよくするし、立ち止まってゆっくり見たりも、わざわざ交差点を渡って少し戻ってチェックすることもよくある。自転車ではそういうことができないから急ぐとき以外はあまり好きではないし、しかも自転車に乗っていても新しい道だとついそれをやってしまうから自分は危ないと自覚している。だから自転車に乗っているときは誰かについていくのが一番だ。歩いているときだって、誰か道を知っている人が率いてくれて、その中で私は進路を心配せずにキョロキョロ見渡したりして興味を引くものがあれば、勝手にその方に歩いて、連れを困らせるくらいが一番ちょうどよく楽しいのです、、汗

注意力散漫になっていろんな方向に目を凝らしてしまうこと、それは発散行為かもしれないけど、視点を変えると、同時に、収拾行為でもあるだろう。持っているものをどれだけ散らして行くかが、自分を薄くしていろんなところに行き渡らせ、広い範囲で知覚を働かせること。それは同時に、いっろんなものを掬っていきたい、という願望の現れ。いろんなものをどれだけ自分の上に積んで乗せていけるか、という感じ。

人生においてもそんな感じなのかもしれない、学問も広く浅く学んできたし、学部を決めるのができなくて、仕事もがっつり何かを選ぶことができなかった。その道を一直線に進むことが怖くて、まわりの小道や路地に全部入って網羅しないと気が済まないような気がして、いつでも一つの道を突き進むような選択を恐れてしまうのかもしれない。そんなことをやってたら、大まかな方向がわからなくなってしまって、自分はこの世界の中の一体どこにいるんだろう、、、と。というか世界はそもそもどんな形をしているのだっけ、なんて。

でも方向音痴だからこそ、いろんなお店とかを集中して覚えておきたいという面もあるかもしれない。注意を払ってないと、その場所には二度と戻れず、永遠に神隠しにあうようなことになってしまうかもしれない。一度見つけたものが、目を逸らしたらもう自分には感知できない場所、見えない袋の中に閉じ込められてしまうような気持ちで、それを逃したくなくてそんなに必死に目を凝らしているのか、、。