言葉にしたら狭まってしまう境界をせめぎ合う狭間

「たちとちがぐる」の由来とか考えの紹介

ブログ1回目の投稿全文:泡のようにふぁっと一瞬だけ浮かび上がる、思考とすら呼びがたい思いつき。でもそれが意外と大切なことを捉えているんじゃないか、と。いつもそんな思いつきを覚えていたいと思ってた。あ、こんなことを一瞬考えたな、と。でもいつも忘れてしまう。朝起きてしばらくすると忘れたくないと思っていた夢をもう思い出せないように。そんな小さなことを、ここに、ささやかに思い留めていきたい。ブログの名前はたちとちがぐる。これまたしょうもない命名の由来はまたいつか。

このブログのタイトル「たちとちがぐる」。これは私がなんとなく意味がわからない変なひらがなにしたかったためにいじった結果。最初に思いついたのは「あちこちバブル」だった。おわかりのように、その「あちこち」を音の響きの好みで「たちとち」に、「バブル」も濁点があるままで柔らかいイメージで「がぐる」にすり替えたのだ。

「あちこちバブル」に込めた想いはちゃんとある。それをあえて変なひらがなの配列っぽくしたのだけど。

皿洗いをしているとき、シャワーを浴びているとき、ぼーっと考えてるときに頭と心がいろんな考えをゆらゆらと漂ってどうでもいいことを考えたりすることがある。日常的な妄想から、ちょっと哲学チックなところまで、いろんなことが。考えって呼べるほどのものではなくて、ぼんやりとしていて、論理的でなくて、ふわっとした「感じ」みたいなもの。あるいはぐにゃぐにゃぼよーんとした「思い」みたいなもの。それが「あちこち」に浮かび上がってくる。それをどうにか外に出したくて、だれかとそんなことについて喋ってみたい、とも思うのだけど、なんにせよそれがはかない。しゃぼん玉のようにゆらゆらどっかに消えていってしまったり、すぐに弾けて消えてしまう。その不確かさ、刹那さが「バブル(bubble:泡)」で、水の中に空気が入った時の、あの泡のイメージも入ってる。

しかも、この繊細で、小さくて、気に留めなかったら全くどうでもいいようなことたちを他人に話すのは怖いし難しい。さらにこのふわっとしたような感じを言葉に、文字にするのが相当に困難。ぼんやりと思っていたときには、何か小さいけど新しいことを思いついたような素敵な気分なのだけれど、これを文字にしようとした途端にその小さな泡の中の小さな小さな輝きみたいなものが消えてしまって、ただ私が書いたというだけの平凡な文章になっていると感じる。

心の中、頭の中にあるもの、それを外に出したい。けれどそれを言葉にしたらそのひらめきや感情の鮮度、ぼんやりと曖昧な、「感じ」だったからこそ感じれたものを、そのまま出すことはできない。なんでかな、と考えた。その泡があったところ、心の奥底か、思考の深いところには言葉はなくて、直感的なものだけがぽわんと浮かび上がるのではないか。それを言葉にすることである種の神聖な場所から普段の私たちの日常の世界に持ってくるのだけど、言葉がない場所で浮かび上がったものを言葉に対応させることは難しくて、だから文章にしたときに出てくるのは、考えていた理想とはかけ離れた、素敵さが一ミリもないのっぺりした普通の文になるのではないだろうか。でも、もし一番巧みに言葉を使えれば、その素敵な「感じ」を言葉にしようとして日常との境界を狭めてしまうその狭間で、日常に取り込まれて輝きが消えてしまう直前の、そのせめぎ合う狭間で輝きみたいなものを感じることができるのではないだろうか。文章にすとんと落とすということまでもしできなかったとしてもその小さな小さな輝きをカケラだけでも残したまま文に残すことはできるのではなかろうか。それが他の人に伝わるかはそれ以降の問題だけど。

、、ってな奇跡じみた変なことを考えて、ブログを始めたんだった。これからも、この「バブル」ちゃんたちを大切に育てて撫でてあげよう。

 

そして最近、違う文脈で同じような考えに出会った。それは心理カウンセリングの中のフォーカシングというもの。心に問題を抱えた人がカウンセリングに来て、セラピストが心理セラピーを施す中で行われるものだ。セラピストはクライエント(カウンセリングにやってきた問題を抱えた人)の話を素直に、思いやりを持って聞くのだが、自分の話を聞いてもらい確認してもらう中でクライエントは自分の体や感情に改めて注意を向ける。そして自分のからだで感じていることを見つめ直し、感じられていることを言い表していくのだ。このフォーカシングにおいて、私たち人間は普段から、フェルトセンスという、様々なものに対して漠然と抱く前言語的な「感じ」というものを感じているとされる。その「感じ」を改めて感じ直し、見つめ直し、クライエントは適切な言葉にしようとする。最も適切な言葉に会うと、そのフェルトセンスはフェルトシフトし、クライエントの体と心を楽に、伸びやかにするのだ。ここに心理カウンセリングにおけるフォーカシングが導く解決の糸口が生まれる。

 

私が感じていた曖昧なふわっとした「思い」もこのフェルトセンスと少し似ている。そしてそれを言葉にしようと思っていることが同じだ、とフォーカシングについて学んだときに腑に落ちるものがあって心が動いた。

このブログを書くことで、私は自分の中に浮かんでくる前言語的な「泡」たちに対して最も適切な言葉を探す作業をしているのかもしれない。そしてそれが見つかったときに何かが解放されて楽な気分になる、そんなプラットフォームを求めているのかもしれない。まだ全然輝きを文章に落とせなくて、のっぺりとした駄作な文章ばかりだけど、これからもゆるゆると、つらつらと、試みていきたい。