夢とか妄想をおもいだす。魅力のある不要物。

心理学の中で、フロイト精神分析などを勉強していて、精神分析に用いられる夢分析などを面白く思うので、たまにその話をすると、「でも私夢全然見ないんですよ」っていう人が絶対いる。よくいる。そういう人の大半は、多分見ていないのではなくて忘れているのだと思う。ちょうど夢を見ている最中とか、脳波的に夢を思い出しやすいタイミングで目覚めたときの夢しか強烈に思い出されることがないし、それ以外の時は夢についてなんて考えていないから、気もつかないうちににゅるっと忘れてしまっているのだろう。

私も自分で夢分析をやってみようと試みるようになってから、頑張ってその日に見た夢を思い出せることが増えるようになった。私なりの夢を思い出すコツは起きた後にそのままベッドでぼんやりと、寝起きで思考にもまとまらない意識を漂わせること、なんとなくどんな夢を見たっけ、って疑問に思ってみること。朝の活動(歯磨きとか)を始めても、頭のどっかにどんな夢だったっけ〜って思ってる部分を残して、時にパッと浮かんでくることを許すこと。

 

時計の刻む時間に縛られていて、起きてすぐ仕事や学校にいかなくてはいけない時間に追われている現代人、起きてすぐにとりあえず携帯を開いてSNSをチェックする現代人にはそんな時間がないのだろう。寝て起きた後に、脳が完全に起きるまでの時間をぼーっと半分起きながら半分まどろむ、といったようなどっちつかずの時間、ゆたかな時間が失われ、脳が無理やり叩き起こされている。といったイメージを持つと、なんだか人間にとってその「あいだ」というものがなくなっていっていて、可哀想なような、大事なものを失っているような、そんな気持ちになる。

ちなみに私はシャワーをしている時や皿洗いをしている時にふと、あ、こんな夢見たな、と思い出すことがよくある。朝起きた後にぼんやりどんな夢を見たっけな〜と考えながらシャワーを浴びている時はわかるのだが、夕方に皿洗いをしている時に、あ、そういえば今日の夢にこんなシーンもあったな、とさらに思い出すことがある。流れる水には何か、触れている時に思考が揺らいで何かが思い出される、みたいな力があるのだろうか。

昔は夢はもっと地位を持っていた。(フロイトなどの精神分析の分野の)夢分析で夢は無意識が顕在化に一番近い状態だ、などということが言われるよりも前、夢はもっともっと価値のあるものだったと思う。夢は天からのお告げや他人からのメッセージや何かの予兆だった。近代を経てそれらを信じることに価値がなくなり、人々は夢を軽視するようになり、次第に忘れて行った。夢を思い出すことや夢を解読することは実用的ではなくなり、排除されて行ったとも言える。現代化のなかで、他にも、不要になったこと、例えば妄想することなどが徐々に排除されてきたのではないだろうか。近代に出版技術が発明され、人は自分が想像力を働かせなくても他人が書いた物語、他人の作った妄想を享受できるようになった。大多数の人々が妄想を外に求めることができるようになり、人々の妄想力が低下した。その結果、現実的になることが大事になり、夢見がちはよく思われないようになった、のかもしれない。

進化論的といえば仕方ないのだろうか。不要なものは排除され、効率的に生き続けるために必要な要素が継承される。うーん、でもなんとなく遠回り的なもの、不要なものにもきらきら光るものが、美が、あるような気がする。夢や妄想じゃなくて、他の遠回り的なもの、不要なものにも。でもそれらのきらきら光る魅力的な不要物であったろうものの中にははすでに失われていて、もう知り得ないものもたくさんあるかもしれない。(魅力のある不要物って単語をみて、思い出したのだけど、そういえば最近聞いた曲に、Beautiful Trash って題名の曲があったな、内容はラブソングだったけど、Beautiful Trash と連呼して歌うそのフレーズを聞いた時に何かハッと思わされるところがあった。)

 

こんな風に考えるのは、ただ私が夢とか妄想的なものが好きで、それを持ってない人に面白味を感じないからかもしれない。でも、もし、時の流れと進化論的な取捨選択に伴ってにこういったものが失われて行くとしたら私は一人で古い時代に取り残されたいかもしれない。