キャンドルが作らない無の時間

サウナで調子を整えたりランニングすることって、肉体を追い込んで頭を無心にすることを許すっていう意味があるんじゃないかしら。お酒を飲むことも、アルコールの力を借りてわざと頭をモヤっとさせて何も考えなくていいようにする。体に悪影響を与えているという意味ではこれも肉体を追い込んでいると言えて一緒かも。

わざわざ体を追い込んで、頭を空にする、頭を整理する時間を作っているとしたら、それは他の時間がいっぱいいっぱいだからかもしれない。物理的に忙しくなくても頭は忙しい。情報が常に行き交っていて起きている間はずっとそれを取り入れているから。

でも逆に何もない時間ってなんとなく不安になって、訳もなくSNSを見て、さらに満たされない気持ちになってしまう。よね。

最近たまにキャンドルを灯している。キャンドルって風とかなくても灯が揺らぐのね、とっても。縦に速く揺れたり、横にゆらゆら揺れたり、しばらく全く動かなくなったり。ああ、これだったら何もない時間も恐怖にはならないで、ぼーっとできるのではないかなーって思った。電球のライトに照らされる部屋の中だと、何もない時間って、移ろうものもないからほんとに何もない、、。無の不変、不変の無。自然に囲まれていたら、何もない時間の中にも何か揺らぐものがある。家の隣の保育園から子供の声が聞こえてくる、元気だなとか嬉しいとかまで思ったりする訳じゃないけど、いいか悪いかで言うとなんとなくよく存在を感じる。

不変じゃない。流れを感じる。そんな中だから安心して頭を空にすることができるのではないだろうか。でも、流れを感じない無の時間が嫌だから日々頭にものを流し続けて詰め込み続ける。でもそれらから解放されるひとときはやっぱり必要で、でも今では無の時間は怖くてそれに罪悪感を感じるからあえて肉体を追い込んでその時間を作ることが流行っていたりしたりする?タバコは中身だけでなく吸う動作が、あの火が燃えて息を吸って吐いて煙が出るという鼻や口のなかで空気が流れることが安心させ頭を空にする時間を作り、疲れた人の頭を少し解放できるのでは。

そんな中で別の可能性を感じるのは手仕事の時間だ。手仕事をしている時の無心感。あれは肉体を追い込むのとも違う、周りで自然が流れているから安心できるのとも違う、頭を空にし心を落ち着ける方法だったりしないだろうか。自分の手元では時が流れていて何かが達成されている。没頭できる時。そんな時間を守るために、常に音声メディアを流しているのはよくないのかもしれない。耳が空いているのが勿体無いと思ったり、情報に惹かれてしまったりはするけど、でも耳に言葉を入れることは頭を使うことでもあるから、休みを入れることも大事かもしれない。

友人がブランド立ち上げを企画していて、キャンドルが作る空間を推している。それに影響されて私もキャンドルをたまにつけるようになって。ある日寝る前にベッドサイドのライトとキャンドルをつけながら本を読んでいて、読み終わった後にベッドサイドのライトを消した後、灯りがキャンドルだけになり、その揺れる光が壁にうつる仄暗い部屋でふと思ったこと。