見思えるえる

パソコンで何か文章を書いているときに、後から見直して文の細かなところを変えたりするときに、消される文字に対して可哀想と思う時がある。

例えば、「〜ように見える」と書いて、やっぱり「見える」という単語を「思える」に変えようと思い、「見」と「える」の間をクリックして消去を一回押して、「見」を消してしまってから「思える」と打つと、「思えるえる」と「える」が二個になってしまう。これでは当然おかしいので、一個消さなくてはいけないのだが、後ろの方を消すのがなんとなく可哀想に思うのだ。何も違わない「える」なのに新参者の「思える」のえるに取って代わられるのが。かと言って、前の方の「える」は「思える」と入力した時のもので、その瞬間からの短い時間ではあるが「思」と相棒なのでそこを切り離して「見える」についていた「える」と「思」をくっつけるのも双方に気の毒だ。

他に、例えば、「全然」を「まったくもって」などと完全に別の単語にする時はあまりそのようなことは考えないのだが。それは推敲の結果であって、別の単語の方がより良いのならばそれに取って代わられるのは仕方ないと感じているのかしら。同じひらがな二文字だから消すことに対してこんな変な情を持つのか、、

でも、そんなことをうじうじ考えるのならば中途半端に「見」と「える」の間にカーソルを置いて「見」を消してから「思える」と打つのではなく「思」だけ打つか、あるいは、「見える」を全部消してしまってから「思える」と打つかすれば良いのだ。なぁ。

かと言ってそんなことを毎回思っていたらきりがないし、いつも意識しているわけではない。ただ、たまにふと思うのであった。