一欠片の土地

4年間過ごした場所から引っ越した。初めての一人暮らしでその土地に住み始めたのは18歳の時。そこで過ごした時間である程度今の自分が完成されたと思う。人には完成なんてなくて、常に成長して行くものだろうけれど、そもそもその歩みを始められたというもっと根本的な意味で。それまでは自分はまだないみたいなものだった。まだあまちゃんなべいびーちゃんだった。出身が田舎だったのは大きいと思うけど、外界とあまり接さずにさなぎの中でぬくぬくとしていたような感じだった。だからこそ最初は自分が外にむき出しにされたような気がして不安定になったし、あらわになったようでぴりぴりした。

でもそれを経て、青年期のアイデンティティの拡散も通り越して、自分ができた。まだまだだけど。

だからその土地は、なくては自分が完成に至らなかったピースなのではないか、と思ってしまう。そのピースがはまったから、今は多少だけど自分の輪郭がはっきりして、自分を持っていると思うことができる。

ピースオブミー、私のパーツ、一欠片。

みんなそんな土地があるのかしら。自分にはまるそのピースの土地と出会えなければその人は完成しないままなのかしら。それとも土地は関係なく、年齢的な作用に場所の思い出がくっついてるだけなのかな、、。それが自分はたまたまそこだっただけなんだろうか。

自分にはまるパーツの土地と出会えなければその人は完成しないままなのかしら。自分の一欠片の土地に出会えずに彷徨っているような人も、いるような気がする、するけれど、それは土地ではなくて思い出とか経験といったものの欠如なんだろか。

たくさんの出来事があった。一人で行動できるようになった。いろんな人と出会った。自分の時間が見つけられるようになった。いっぱいの思い出が私を作っている。それはそうなんだけど、もちろんその思い出それぞれもピースオブミーになってるんだけど。でもその土地というピースがそれを可能にしたような。その思い出がその土地でのものだからっていうだけのことじゃないような、。

Piece of me. Part of me.

pieceだとパズルのピースのような私という全体の1ピースを指しているニュアンスで、partだともう私の一部分となっているその部分、といった感じがする。どっちなんだろ、、でもその土地を離れると今度は自分の少しを失うような感じがして、それは当然のことだよな。そして新しい土地でもまた最初はひりひりしながらもさらに厚い自分を作っていくんだろう、、。

過ごした場所がそこでなければ今の自分にはなっていないと思う。それはもちろんそう。それよりさらに、そこでなければ自分はそもそも「なって」ない気がする、そんな不思議な感じなの、わからないよね、、、。そんなことないのかな。書き留めておかないと前者の思いになってしまう気がして書いたけど、全然うまく書けなかったや。

でもとりあえず、置いていくことになってもぎ取られてしまった欠片もあるけど、その欠片のイメージ、像、雰囲気、色彩、あるいは記憶、何かは持って出た。それでももしかしたらこれからまだべいびーちゃんだったって思い知らされるかもしれない。