感じる「何か」とは

歌のオーディション番組とかを見ていると、見るからにひどい出来の人が落とされたり、ものすごい美声の持ち主が次のステージに進める。当たり前のことである。でも、正直全くどっちかわからない人が審査員に「あなたは何か持ってるわ」と言われて次に進んだりする。その「何か」はその場にいて空気を感じ取ることができたらわかるものなのか、目が肥えて神経が研ぎ澄まされた審査員だから見つけることができたのか。

この前見た映画では主人公の女の子が、ミュージシャンの彼氏が作った新曲を聴いて、これは誰に向けて書いた曲なの!私じゃないでしょ!ってブチギレるシーンがあって、新曲を聞かせただけで浮気が一瞬でバレた彼氏も驚いてたし、私もすげえって思った。どこから何を感じ取ってそこまでの確信を持って彼氏をビンタ(!)できたんだろうって思った。映画だけど。

就活の面接でも、受け答えを綺麗に作って、美しく言うことはできると思う。そして元からそんな喋り方な子もいるだろう。逆にとても強い思いを持っているのに、そういうことが苦手な子や本番に緊張してしまう子もいるだろう。でもそんな中で絶対的な確信を持って合否の判断を出していく凄腕の人事の人もいる。似たり寄ったりな就活生の中で、みんなが大体同じようなことを言っている中で、その言っている表面の奥で持っている熱意、才能、「何か」を見極めることは簡単なのだろうか?

そんな、凡人からは見て取ることができない「何か」は一体何なのだろう?もちろん経験や知識や観察眼がものを言うのだろう。でも、突き詰めると、絶対に誰にも見破れない完全なポーカーフェイスで嘘をつく人に関しては?その人の顔や動作からは全く一切何も読み取れなかったとしても、フィーリングでそれをわかる人がいる?そんな人がいるとしたら、その人には今の私にはまだ見えていない何かが見えているのではないだろうか。経験や知識や観察眼などの想像できるものの境界線を少し超えた、「見える」能力を持っているのではないだろうか?もしかしたら凡人には理解できないアーティストや、哲学者もそんな類の、持っている人なのかもしれない。

私にはまだ開けていないけど、誰か、には見えている世界があるのではないだろうか、と思ってしまうのである。訓練や積み重ねで見えるようになるリアルなものではなくて、まだ知らないパワーの一種というか。何かきっかけがあったら開くかもしれなくて、永遠に開かないかもしれない、そんな世界が。

 

(追記)

後日友人と喋っていてこの「何か」を感じれる感覚器官が第三の目といい表せるのだと気付かされた。そうか、こんな感覚から第三の目というものを信じるようになるのか。

見思えるえる

パソコンで何か文章を書いているときに、後から見直して文の細かなところを変えたりするときに、消される文字に対して可哀想と思う時がある。

例えば、「〜ように見える」と書いて、やっぱり「見える」という単語を「思える」に変えようと思い、「見」と「える」の間をクリックして消去を一回押して、「見」を消してしまってから「思える」と打つと、「思えるえる」と「える」が二個になってしまう。これでは当然おかしいので、一個消さなくてはいけないのだが、後ろの方を消すのがなんとなく可哀想に思うのだ。何も違わない「える」なのに新参者の「思える」のえるに取って代わられるのが。かと言って、前の方の「える」は「思える」と入力した時のもので、その瞬間からの短い時間ではあるが「思」と相棒なのでそこを切り離して「見える」についていた「える」と「思」をくっつけるのも双方に気の毒だ。

他に、例えば、「全然」を「まったくもって」などと完全に別の単語にする時はあまりそのようなことは考えないのだが。それは推敲の結果であって、別の単語の方がより良いのならばそれに取って代わられるのは仕方ないと感じているのかしら。同じひらがな二文字だから消すことに対してこんな変な情を持つのか、、

でも、そんなことをうじうじ考えるのならば中途半端に「見」と「える」の間にカーソルを置いて「見」を消してから「思える」と打つのではなく「思」だけ打つか、あるいは、「見える」を全部消してしまってから「思える」と打つかすれば良いのだ。なぁ。

かと言ってそんなことを毎回思っていたらきりがないし、いつも意識しているわけではない。ただ、たまにふと思うのであった。

まなてぃーの可愛さ

マナティーという大きな草食の水中動物。どうしようもなく可愛い。

その優しい顔とちっちゃい目、大きく丸い体に、小さなおてて、しゃもじ型の尻尾。そのどうしようもない可愛さはどこから来ているのだろうか。

小っちゃい子供ってよくこけるけど、それって頭が重くてまだ体のバランスが取れていないから。頭が大っきくて重たくて、だからそれにつられてこけちゃうってすごいどうしようもない可愛さがある。マナティーも、でっぷりと大きい丸い体に対して顔の部分が小さく、また、手がものすごく短い。対面している相手の方向に伸ばしたってその手は届かない、隣になんでやねんってぱしってやっても届かないくらいの短さ。頭が重たくてそのアンバランスが故にこけてしまう幼児に感じる可愛さと同じように、マナティーのそんなにでっかい図体に対して全然足りない手の短さという体のアンバランスさに保護欲を駆り立てられているのだろうか。

小さい子供でもう一つ可愛いって思うのが、全身がくるまるふわふわのつなぎを着てるの。くまとかしろくまモチーフのほわほわした生地で、全身のつなぎで前にチャックがついてて、それで脱ぎ着する。手も足も全部くるまれちゃって帽子もかぶって、もう全身の中で顔だけが出てそれ以外の箇所は全部ふわふわに覆われちゃうやつ。その、出てこない手と足にものすごい可愛さを感じる。まなてぃーも、手と尻尾がまるくて、指もない。手はひれっぽさが全くなくて、水を掻けなさそうだし、尻尾なんて他の水中の哺乳類は真ん中で分かれていたりくぼんでいたりするのに、全く切れ込みも何もなくてただぼてっと丸い。そんな力不足で無抵抗な感じがはたまたどうしよもなく人間の心をほどかせるのだろうか。

みんながマナティーを見て優しい気持ちになって世界が平和になればいいと思うのー。

「メイクセンス」しないアルバム

知人の意外な一面を知ってびっくりした時、意外性がその人の今まで見てきた部分に対して「へー」となんとなくしっくりくる場合や、全くもってしっくりこず、いままで自分の中にあったその人の人格図から飛び出しているように思えることもある。

自分について自己紹介をする時、名前を言って出身や仕事を言って、そのあとに趣味やマイブームをいう時って大体いうこと決まってる。でも実はそこで言ったこと以外にもあると思う。自分が他の人よりも愛を注ぐ小さな小さなニッチがあって、それは小さくても完全に自分を他人とは違う自分にしている一部。

そんな、自分を自分として際立たせてくれているものが自分の中にあって、さらに自分の構成要素となっている。でもそれらはあまり普段の自分と連関性がなかったり、それこそ他人にとっては驚きだったりする。「だずいっとめいくせんす?」理にかなっているかと言われるとそうではないかもしれない。「めいくせんす」していない一部かもしれない。

自分を作っているオリジナルな特性の個々はあまりにいろんな方向に向かっていて自分でもわからなくなることがあるかもしれない。この特性はどこからきたんだろう、この趣味は?って。まあそんなに深く考えてるわけでもないんだけど。

わかりやすく「ああこういう人、」ってわかる趣味の連なりだったり、がんとした強い特性な人もいる。でもみんなそういうわけではなく、持ってるのは小さな弱い特性だから、しかもそれがあっちこっちに向いているものだから、自己紹介の時とかに忘れちゃうわけで。わからなくなるわけで。

いろんな曲が入ってる一つのアルバムみたいかなって思う。全てが繋がっているわけでもなくて、全てが「めいくせんす」してるわけでもない。一つの曲のどっか一箇所だけ他の曲のどこかと同じ単語が出てきたり、少しだけメロディが似てたり。そしてそれらがパッチワークみたいに集まって、ちょっと激しい曲とか、変な曲とかも混じって、個々のシングル曲だったらバラバラ感はあるものの何と無く一つのアルバムとしてまとまっている、っていう。んでアルバムだから強くて、あんまり好きじゃない曲とか、存在感が薄い曲とかもあるけど、それがあってこその一アルバム。

すごくすごい芸術

歌の歌詞に、論理的には全く意味が繋がってなくて全く理解はできないんだけど何か胸にぐっときて感動することとか、すんごい不可解な展開でどうなってるのかよくわからない小説や映画とかがある。一体全体どうしたらどんな思考になってこんなものを作れたのかしら、て思う。それらのすごい芸術は、作者がいろいろと考えて考えて常人じゃ辿り着けない思考の境地まで考えた挙句にたどり着いたものなのか、論理では説明することができない感情のほとばしり的なものなのか、神からのお告げみたいなものが上から降ってきてただそれに従ったものなのか、もう何も考えずに適当にいろんなものを放り込んでやってみたものに対して私たちが意味があると思ってしまっているからすごいと、あるいは不可解と感じるのか、はたまた作者が実は精神を侵されていてその作品はイっちゃってる狂気の中で生じた、本来なら形となることがありえないものなのか

ピカソの絵や、フロイトの哲学思想もそんなものではないだろうか。いやどれなんだろう。

自分がそれを芸術として享受できれば、作った人の事情は知らなくてもいいのかもしれない。作者が実際は適当にいろんなものを放り込んで見たものにしろ作者の狂気の中で生じたものにしろ、その芸術に自分が感動した、あるいは気持ち悪いと思った、なにかの感情を心に湧かせたということが大事なのかもしれない。

でもなんとなく、お告げが降ってきた/適当/狂気の芸術に感動するのが、めちゃめちゃ考えた/感性や感情のほとばしりの芸術に感動するのに比べてなんとなく損をしているようだと思うのはなぜだろう。その人にしかできない芸術だと思いにくいからだろうか。私たちにも神からのお告げが急に降ってくれば、頭を空っぽにして適当にいろんなものをごちゃ混ぜにしてしまえば、薬を飲んでラリってしまえば、そんな作品が可能になるかもしれないと思うからか。

でもそんなことはしない。多分しないからそんな芸術をすごいと思い、思ってしまうのだろう。そのすごい芸術を作った作者の事情を知らなければ、その事情がどのようであったにしろ、見た時に感じる心の動きは変わらないだろうし。

片方だけピアス展

片方だけになっちゃったピアスだけを集めて展示する「片方だけピアス展」をやったらおもしろいと思う。

ピアスって結構自分の個性が出る上に、買うとしばらくお気に入りになったり、この服の時はこれが一番合う、ってな感じでとても愛着が湧く。でもピアスはめちゃめちゃなくしやすい。特に片方だけ、とか。ネックレスとか指輪ほどには無くした時のショックは大きくはないかもしれないけど、でもピアスを片方失くすと、残ったもう片方が失くしてしまったという事実を思い出させてくる。そして思い出があるがために、ひとりぼっちになってしまった片割れを捨てることができない。でもちぐはぐになってしまうので、他のピアスとペアにしてつけることもはばかられる。そうして見るだけで懐かしい、ペアを失った一つだけのピアスが増えていく。買った時や場所の思い出、それをつけて遊びに行った日や合わせた洋服の記憶、その片割れをなくしたエピソード。シャワーしていてぽろっと取れて排水溝に流されちゃうことと、お泊まりしてたらなくなってたことが多いけど。洋服だってたくさん思い出があるけど、たくさん着ると段々消耗してって思い出深い時にはもうかなり寿命がきている上に置いておくのにかさばる点、小さくて一つだけでもそれなりに可愛くて、むしろ片方なくなったことでもう着けなくなるから逆に綺麗に残るっていう点でピアスってずっと捨てれないんだな。

そんな思い出深い、片方になってしまったピアスたちの展示っていいと思うんだけど。どの片っぽピアスにも小さなエピソードがあるだろうし、人それぞれにいくつかの片方のピアスがあったらその人の好みや人柄も少し垣間見れて楽しいだろう。ちなみに私は片っぽピアスが10個あった。

f:id:GaGuRu:20200330185038j:plain

片方だけピアス展で、違うピアスでもいけてる組み合わせを発見したら、エピソードとともにピアスも他人と交換して、さらに新たなエピソードを作り出すのもいいかもしれない。

 

人生ごーる、道草、ゆれはば

私たちの一生にゴールがあるとしたら、私たちの生きる毎日はそのゴールに向かう道で、その道の途中で様々な道草を食って行くのが人生なのではないだろうか。ゴールに向かう一直線があるとして、道草を食うというのはゴールに向かって直線的ではなく曲線的に、ゆるゆると遠回り徘徊しながら到達するということなのではないだろうか。白い紙の上に黒のボールペンで線が書かれているのを人間がみると、どちらもただの書かれた一本の線であるということに違いはないのに、直線よりも曲線の方が感情を持つように感じられる。私たちの人生も線にした時にうねうねぐるぐるしてたほうが、効率は悪いけど、楽しいのではないだろうか。ゴールに向かう線の揺れ幅が人生のゆたかさとなるのではないだろうか。

f:id:GaGuRu:20200321152630j:plain

そしてその道草を食うことによる振動で最終地点も自然と変化するものなのかもしれないなぁ。。。とふと思ったこれは一瞬こんなことが頭に浮かんだよっていう自分めも。

f:id:GaGuRu:20200321152843j:plain