歌で「枠」の外を垣間見る

邦楽はあまり聞かない。普段は洋楽ばかり聞く。でも最近好きな邦楽アーティストができて、なんとなく考えたことがある。

日本語の曲には、美しく言葉を紡いでいる歌詞や曲調が好きな曲はたくさんある。でもなんかやっぱ、私がよく耳にする時の流行りの曲は直接的な感情表現をするラブソングや失恋ソングで、それが分かり易すぎるのだと思う。歌詞ってその瞬間の気持ちとかその情景とかを歌に込めるものだけれど、そもそも人の感情とかって完全に言葉には出しきれないもの。(フラれた時だって、怒りや悲しみだけじゃなくてほっとした感じとか感謝の気持ち、その時に思いだされる別れに至った因果関係とか、それでも出てくる涙や切なさ、それにいろんな感情を引き起こす思い出や、その時に目や鼻が捉える周りのものや匂い、それらがその時だからこそ残す印象があって、それは言葉では言い尽くせないし、どう頑張っても言語に落とし込むことで十分でなくなってしまうごた混ぜなものとか繊細なものとかがあるはず。)そこにどうにか自分の持ってる語彙をフィットさせて歌詞として表現していると思うのだけれど、日本語の歌、特に最近のラブソングはそれを綺麗に単純に言語化して美しくわかりやすい歌詞にしているものが多いのではないか、と。そんなにキレイでわかりやすい歌詞にされると物足りないというか、全てを表しきれないというか、全てを表しきれないということを隠しているというか、、、。それにメロディーだってわかりやすい。曲の構成がAメロ→Bメロ→サビというような感じで多かれ少なかれはっきりとした構成になっている。サビのメロディーだって簡単で口ずさみやすいものになっている、とおもう。それがダメだとかそういうわけではなく、それで気恥ずかしいわけで、、。だから私はもっと、よくわからなかったり意味のないようでありそうな言葉が入っていたりする歌が好きなのだ。洋楽にはそういうのが多いような気がするし、最近好きになったアーティストもそういうニュアンスや雰囲気があると思う。

こないだ読んだ遊びについての本に、芸術について書かれていた。おおかた人の「生」は「枠」の中に入っていて、芸術家とはその「枠」に空いている穴の付近で遊んで、芸術によって「枠」の外を垣間見させてくれるものだ、と。捉え方はあると思うけど私が思うに、私たちの理解が及ばない不思議な領域や不気味な領域、それらは凡人は普段近づかないところだけどそれらを見るようにと芸術家たちが私たちを芸術で誘ってくれる。音楽も芸術として、歌であることによって凡人を不思議なところに連れて行っったりいろんな感情にさせたりしてくれる。

歌詞が単純な一本のストーリーでわかりやすいものとなっている邦楽に比べて、洋楽ははっきりさせたくない心情がそのまま、はっきりさせないまま、混沌としたままで歌っているように感じるのだろうか。(メロディの一音に対して日本語では一文字しか入らないけど英語だったら一単語とか入るから同じメロディであったとしても英語の歌の方が内容量が多いと思う、だからたくさん歌詞を増やさなくてはいけないから他のいろんな要素を取り込むというのもそう感じる一要因かもしれない。)さらにいうと母国語でない英語だから余計そのわからなさが増していて、何事も言語化させられているよりも落ち着くのかもしれない。

「枠」の話に戻ると、日本語のわかりやすい歌詞はその「生」の枠の内側で知り尽くした所をぐるぐる回っているようなもので、枠の外側を見させてくれる要素が少ないのかもしれない。わかりやすい言葉に美しく言語化された歌詞は、その言葉に入りきらなかったものを全て削ぎ落とし変形させその歌詞だけになった、言って見れば過剰に美化されたもののような気がする。だから未知の領域を見せないし不思議な感覚も残さず、したがって芸術だけが役割を担うことができる何かの深みを見させてくれる、という特徴が薄いのかもしれない。ロジカルでわかりやすい説明が求められる合理的な現代社会において、芸術はキパッとしてなくて、もやっとしてていいし、むしろ合理的でわかりやすいだけじゃなくて、普段なら覗き込めない領域を感じさせてくれるような、そんなものであってほしい、言葉では表せない何かよくわからないものとかを含んで欲しいという気持ちがあるのかもしれない、、。

しかし最近好きな邦楽アーティストができたように、邦楽も、洋楽も、いろいろだと思うし触れていないところに日本の素敵な歌詞が隠れていると思うから、またたくさんの素敵なものに巡り会えることを期待して、2020年を締めくくり新しい年、2021年を迎えたいと思う。

感情をフル活用

好きな人とご飯に行く約束をしてうきうきしている友達が、「でもあんまり考えすぎないようにしてる、期待しすぎたら悲しいし」と。私はそこで、その子がるんるん気分を抑えるってことをもったいないと思ったんよ。

私の持論は、存分に盛り上がってドキドキすればいい。だってもし何もなかったとしても今の状態から何も失われるわけじゃないし、ドキドキしてる時間はひたすらに楽しい時間だし。なんか多分いいホルモンとかも出てるし。

もしも仮に結局何もなくて、ドキドキが無駄で終わったとしても、そのドキドキしてた時間は消えないし、そのとき感じてたその時のうきうき感も消えないし。あとから、あの時思い上がってて馬鹿だったな、とか、損したなって思ったとしても、その時間自体はもう過ぎ去って過去になっちゃってるから嫌な思い出に変わることもありえないって思えてくる。そう、だから事前に期待しちゃった分の後からの反動が辛いからって心を抑えるよりも、その事前の時をドキドキしちゃった方が得じゃない??って思うわけよ。盛り上がったものが仮に落ちちゃったときに悲しいからって思って上昇にブレーキをかけちゃうより、とりあえずガンガン加速しちゃいなよ〜って。長い間付き合ってるカレカノが別れるだったら落ちたあとマイナスになるかもだけど、そうじゃないならマイナスにはならずにゼロに戻るだけじゃない?

だから、もしあとからあ〜うきうきしてたのに何もなかったなって残念に思っても、むしろその時の時間を普通の日常の時間から、何かスペシャルなものを潜めて抱え持ってるみたいな素敵な気持ちにさせてくれてありがと、って思えば良いと、思うわけです。

私が思っているのは、多分感情って量の際限よりも時間のリミットがくる方が早いんじゃないかなってこと。そんでだから心はフル活用した方がいいんじゃないかなってこと。すっごい悲しいとかいうマイナスの感情は感じない方が断然いいって思う人もいるかもしれないけど、私は心は使えるうちに、そして錆び付いちゃわないうちにどんどん感情を感じた方が得だと思うのです。

夢とか妄想をおもいだす。魅力のある不要物。

心理学の中で、フロイト精神分析などを勉強していて、精神分析に用いられる夢分析などを面白く思うので、たまにその話をすると、「でも私夢全然見ないんですよ」っていう人が絶対いる。よくいる。そういう人の大半は、多分見ていないのではなくて忘れているのだと思う。ちょうど夢を見ている最中とか、脳波的に夢を思い出しやすいタイミングで目覚めたときの夢しか強烈に思い出されることがないし、それ以外の時は夢についてなんて考えていないから、気もつかないうちににゅるっと忘れてしまっているのだろう。

私も自分で夢分析をやってみようと試みるようになってから、頑張ってその日に見た夢を思い出せることが増えるようになった。私なりの夢を思い出すコツは起きた後にそのままベッドでぼんやりと、寝起きで思考にもまとまらない意識を漂わせること、なんとなくどんな夢を見たっけ、って疑問に思ってみること。朝の活動(歯磨きとか)を始めても、頭のどっかにどんな夢だったっけ〜って思ってる部分を残して、時にパッと浮かんでくることを許すこと。

 

時計の刻む時間に縛られていて、起きてすぐ仕事や学校にいかなくてはいけない時間に追われている現代人、起きてすぐにとりあえず携帯を開いてSNSをチェックする現代人にはそんな時間がないのだろう。寝て起きた後に、脳が完全に起きるまでの時間をぼーっと半分起きながら半分まどろむ、といったようなどっちつかずの時間、ゆたかな時間が失われ、脳が無理やり叩き起こされている。といったイメージを持つと、なんだか人間にとってその「あいだ」というものがなくなっていっていて、可哀想なような、大事なものを失っているような、そんな気持ちになる。

ちなみに私はシャワーをしている時や皿洗いをしている時にふと、あ、こんな夢見たな、と思い出すことがよくある。朝起きた後にぼんやりどんな夢を見たっけな〜と考えながらシャワーを浴びている時はわかるのだが、夕方に皿洗いをしている時に、あ、そういえば今日の夢にこんなシーンもあったな、とさらに思い出すことがある。流れる水には何か、触れている時に思考が揺らいで何かが思い出される、みたいな力があるのだろうか。

昔は夢はもっと地位を持っていた。(フロイトなどの精神分析の分野の)夢分析で夢は無意識が顕在化に一番近い状態だ、などということが言われるよりも前、夢はもっともっと価値のあるものだったと思う。夢は天からのお告げや他人からのメッセージや何かの予兆だった。近代を経てそれらを信じることに価値がなくなり、人々は夢を軽視するようになり、次第に忘れて行った。夢を思い出すことや夢を解読することは実用的ではなくなり、排除されて行ったとも言える。現代化のなかで、他にも、不要になったこと、例えば妄想することなどが徐々に排除されてきたのではないだろうか。近代に出版技術が発明され、人は自分が想像力を働かせなくても他人が書いた物語、他人の作った妄想を享受できるようになった。大多数の人々が妄想を外に求めることができるようになり、人々の妄想力が低下した。その結果、現実的になることが大事になり、夢見がちはよく思われないようになった、のかもしれない。

進化論的といえば仕方ないのだろうか。不要なものは排除され、効率的に生き続けるために必要な要素が継承される。うーん、でもなんとなく遠回り的なもの、不要なものにもきらきら光るものが、美が、あるような気がする。夢や妄想じゃなくて、他の遠回り的なもの、不要なものにも。でもそれらのきらきら光る魅力的な不要物であったろうものの中にははすでに失われていて、もう知り得ないものもたくさんあるかもしれない。(魅力のある不要物って単語をみて、思い出したのだけど、そういえば最近聞いた曲に、Beautiful Trash って題名の曲があったな、内容はラブソングだったけど、Beautiful Trash と連呼して歌うそのフレーズを聞いた時に何かハッと思わされるところがあった。)

 

こんな風に考えるのは、ただ私が夢とか妄想的なものが好きで、それを持ってない人に面白味を感じないからかもしれない。でも、もし、時の流れと進化論的な取捨選択に伴ってにこういったものが失われて行くとしたら私は一人で古い時代に取り残されたいかもしれない。

電車でお手玉するロボット

某会社のインターンエントリーシートの設問に「あなたが雑誌のコラムを書くことになった、テーマを好きに決めて自由に書け」というものがあった。おもしろいなあと思って、あちらが何を求めているかとかこの設問で何を見ているのかとかは全く考えず、作文を書くように好きに書いて出した。

 

通常は乗らない区域の電車に乗った時にふと考えたこと。

私が席に座っていると、私の向かい合わせに一人で乗っていた小学生が私を見て、足を組んで片腕を曲げるという私のポーズをおもむろに真似ている。私は可愛いものだなあと思いつつ気づかないふりをしながら考えていた。確かに、子供は赤ちゃんの時から大人を模倣して育っていくものだ。小さい子供はなんでも真似したがるし、言葉や基本的な生活動作などは子どもが大人から学んで行くものである。そう考えるとこの電車の中で、その真似をしたいと思わせるような面白い大人はいない。皆が手に携帯電話を持ち、気怠げに操作をしながら画面に見入っている。スマートフォンの中身は他人からは見えず、小さな四角い画面に何が写っているのかもわからないし、それをうつむきがちに覗き込んでいる人間の表情も読みにくい。この光景は子供達の心の成長に悪いのではないだろうか。つまらない、面倒臭い、などという言葉がすぐに若者から出てくるという現象の根源はこういった社会の情景にあるのではないだろうか。かつては新聞を読むおじさんや勉強の手を止めない学生、編み物をするおばあさんなど、もっと様々な光景が見られたのかもしれない。現在でも携帯を触る人ばかりでなく、もっと面白く真似したいと思うような大人がいれば子供達も楽しいだろうに。電車でお手玉や手話など様々な芸を披露するロボットを導入するのはどうだろうか、、。

 

600時制限で598字の攻めの詰め込み。最後は皮肉のつもりね、人間よりロボットの方が面白い存在になってしまうのではないか、という。AIに世界を乗っ取られるとか、そんな恐れを持っている人もいるかもしれないけど、それは起きるとしてもまだまだ先。それよりも子供が見る対象として面白い相手というところでは、もう人間は既に人間が作り出せるプログラムに負けているのではないだろうか。子供にはスマホをいじって一人の世界に入っている大人よりも、自分にとって面白いものを見せてくれるものの方が魅力的に映るのではないだろうか。忙しくて子供にはテレビを見せっぱなし、自分はスマホに夢中の人間よりも、絵本の読み聞かせをしてくれてくれたり、いろんな楽器を吹いてみせたり、変なダンスをしていたり、ケーキのデコレーションをしたり、スライムを作ったり、ドミノをたくさん立てたり、、はたから見て子供が興味を持つようなことをしているロボットを発明したらそれは子供達に人気者になるのではないだろうか。発展した機械学習をできるようになってものすごく賢くなったAIなどの、人間が恐怖している所よりも人の心に訴えかける面白さ、などという「心」が関与するところ、人間が機械には唯一負けないと誇っている領域の方が実は危ういのではないだろうか。

もったりロジカル

ふぁっくロジカルシンキング

論理的に、構造的に、ってのが好きじゃない。なんでそんな論理的に説明しなきゃいけないの?なんのために?誰のために?って思う。あ〜でもそれだと逆にロジカルシンキングが必要であることに対するロジカルな理由を求めてることになっちゃう、難しい、、、。いや、でも論理的な説明をされたって、その説明が非の打ち所のないものであったとしても、なんか反発したい。そう思うのはロジカルじゃない直感か。最終的に強いのはやっぱり気持ち、直感であってほしい。理由なんて求められた時に後付けでいいと思う。ロジカルシンキングが必要なスキルだと謳われ、それを身につけさせられると、四角四面な檻に入ってしまうような、押し込まれてしまうような気がする。もっとのびのび自由でいたい。

「就活の軸」なるものを考え、「自分がワクワクすること」との結論に至った。日々の生活の中で多くの時間を占めるであろう仕事は必然的に人生の中で多くの時間を占める。だから、仕事は自分にとって楽しいものであってほしい。働くことを楽しいって思いたいし、自分のやってることが好きって思いたい。だから、自分が好きなことをやりたい。好きなことというと趣味とか、限定しているようだし、挙げればキリのないたくさんの小さな好きなことが出てくるから、「ワクワクすること」。

でもこれを言うと理解してもらえない。言った後には「あなたにとってワクワクするってどういうことですか?何をしてるときにワクワクするんですか?」って聞かれる。まあ確かに、新しいものを作り出してる時、とか、人に喜んでもらえた時、学びを吸収している時、アイデアが形になった時、利益が出た時、仲間と共同作業が上手く行っている時、とか色々その中にもあるけれど、その中で特にこれっていうわけじゃない。どれでも同等にワクワクするし、どのワクワクでもいいのかもしれないし、同等なレベルのそれらを全てひっくるめた意味を持たせてあえてこの表現にしているとも言えるかもしれない。選びたくないってのもロジカルに反対したい気持ちか。でもこの表現を変えたくない、取り下げたくない。一番しっくりくる。それも直感か。

論理的で構造的でロジカルな、かっちりしたその四角四面な理由とか枠組みとか取っ払って、もっとのったりもったりほわほわべちゃってしてるかたまりとか液体とか気体とかじゃダメかしら、、、?

言葉にしたら狭まってしまう境界をせめぎ合う狭間

「たちとちがぐる」の由来とか考えの紹介

ブログ1回目の投稿全文:泡のようにふぁっと一瞬だけ浮かび上がる、思考とすら呼びがたい思いつき。でもそれが意外と大切なことを捉えているんじゃないか、と。いつもそんな思いつきを覚えていたいと思ってた。あ、こんなことを一瞬考えたな、と。でもいつも忘れてしまう。朝起きてしばらくすると忘れたくないと思っていた夢をもう思い出せないように。そんな小さなことを、ここに、ささやかに思い留めていきたい。ブログの名前はたちとちがぐる。これまたしょうもない命名の由来はまたいつか。

このブログのタイトル「たちとちがぐる」。これは私がなんとなく意味がわからない変なひらがなにしたかったためにいじった結果。最初に思いついたのは「あちこちバブル」だった。おわかりのように、その「あちこち」を音の響きの好みで「たちとち」に、「バブル」も濁点があるままで柔らかいイメージで「がぐる」にすり替えたのだ。

「あちこちバブル」に込めた想いはちゃんとある。それをあえて変なひらがなの配列っぽくしたのだけど。

皿洗いをしているとき、シャワーを浴びているとき、ぼーっと考えてるときに頭と心がいろんな考えをゆらゆらと漂ってどうでもいいことを考えたりすることがある。日常的な妄想から、ちょっと哲学チックなところまで、いろんなことが。考えって呼べるほどのものではなくて、ぼんやりとしていて、論理的でなくて、ふわっとした「感じ」みたいなもの。あるいはぐにゃぐにゃぼよーんとした「思い」みたいなもの。それが「あちこち」に浮かび上がってくる。それをどうにか外に出したくて、だれかとそんなことについて喋ってみたい、とも思うのだけど、なんにせよそれがはかない。しゃぼん玉のようにゆらゆらどっかに消えていってしまったり、すぐに弾けて消えてしまう。その不確かさ、刹那さが「バブル(bubble:泡)」で、水の中に空気が入った時の、あの泡のイメージも入ってる。

しかも、この繊細で、小さくて、気に留めなかったら全くどうでもいいようなことたちを他人に話すのは怖いし難しい。さらにこのふわっとしたような感じを言葉に、文字にするのが相当に困難。ぼんやりと思っていたときには、何か小さいけど新しいことを思いついたような素敵な気分なのだけれど、これを文字にしようとした途端にその小さな泡の中の小さな小さな輝きみたいなものが消えてしまって、ただ私が書いたというだけの平凡な文章になっていると感じる。

心の中、頭の中にあるもの、それを外に出したい。けれどそれを言葉にしたらそのひらめきや感情の鮮度、ぼんやりと曖昧な、「感じ」だったからこそ感じれたものを、そのまま出すことはできない。なんでかな、と考えた。その泡があったところ、心の奥底か、思考の深いところには言葉はなくて、直感的なものだけがぽわんと浮かび上がるのではないか。それを言葉にすることである種の神聖な場所から普段の私たちの日常の世界に持ってくるのだけど、言葉がない場所で浮かび上がったものを言葉に対応させることは難しくて、だから文章にしたときに出てくるのは、考えていた理想とはかけ離れた、素敵さが一ミリもないのっぺりした普通の文になるのではないだろうか。でも、もし一番巧みに言葉を使えれば、その素敵な「感じ」を言葉にしようとして日常との境界を狭めてしまうその狭間で、日常に取り込まれて輝きが消えてしまう直前の、そのせめぎ合う狭間で輝きみたいなものを感じることができるのではないだろうか。文章にすとんと落とすということまでもしできなかったとしてもその小さな小さな輝きをカケラだけでも残したまま文に残すことはできるのではなかろうか。それが他の人に伝わるかはそれ以降の問題だけど。

、、ってな奇跡じみた変なことを考えて、ブログを始めたんだった。これからも、この「バブル」ちゃんたちを大切に育てて撫でてあげよう。

 

そして最近、違う文脈で同じような考えに出会った。それは心理カウンセリングの中のフォーカシングというもの。心に問題を抱えた人がカウンセリングに来て、セラピストが心理セラピーを施す中で行われるものだ。セラピストはクライエント(カウンセリングにやってきた問題を抱えた人)の話を素直に、思いやりを持って聞くのだが、自分の話を聞いてもらい確認してもらう中でクライエントは自分の体や感情に改めて注意を向ける。そして自分のからだで感じていることを見つめ直し、感じられていることを言い表していくのだ。このフォーカシングにおいて、私たち人間は普段から、フェルトセンスという、様々なものに対して漠然と抱く前言語的な「感じ」というものを感じているとされる。その「感じ」を改めて感じ直し、見つめ直し、クライエントは適切な言葉にしようとする。最も適切な言葉に会うと、そのフェルトセンスはフェルトシフトし、クライエントの体と心を楽に、伸びやかにするのだ。ここに心理カウンセリングにおけるフォーカシングが導く解決の糸口が生まれる。

 

私が感じていた曖昧なふわっとした「思い」もこのフェルトセンスと少し似ている。そしてそれを言葉にしようと思っていることが同じだ、とフォーカシングについて学んだときに腑に落ちるものがあって心が動いた。

このブログを書くことで、私は自分の中に浮かんでくる前言語的な「泡」たちに対して最も適切な言葉を探す作業をしているのかもしれない。そしてそれが見つかったときに何かが解放されて楽な気分になる、そんなプラットフォームを求めているのかもしれない。まだ全然輝きを文章に落とせなくて、のっぺりとした駄作な文章ばかりだけど、これからもゆるゆると、つらつらと、試みていきたい。

 

ポリ袋を伸ばし伸ばし勉強

勉強ばっかりする人はあまり好きじゃない。単純に自分の中での、勉強ばかりのやつは面白くない奴というレッテル貼りもあるのだろうけど、それだけではなく、勉強しかやらなかったらうまく知識が頭に入らないんじゃないの?と思う。例えば、私のイメージでは(科学的なことは全くの無知なので、あくまでイメージの話)右脳と左脳の動きがあるとして、詰め込みや暗記の勉強はひたすら左脳で行われていて、でも他の趣味とかをやってもう片方の右脳も発達させないと左脳側にも知識が全て入り切らないんじゃないか、と。

考えてみるとシンプルで当たり前のことに思える。根詰めて何かをやっていても、休憩して心身をリフレッシュさせることが大事だ。例えば音楽をやったり芸術を見たり作ったり、外で思い切りスポーツをしたり寝っ転がって漫画を読んだり料理をしたりして。でもリフレッシュのためだけじゃなくて、脳の容量的にもこれらの娯楽的なものをしないと勉強のキャパが増えないのではないかと思うのだ。

しかし受験勉強の時や、コンプレックスやトラウマがあるのか何かに囚われているような学生はなぜか自分にハッパをかけて追い詰めて勉強をしていて、勉強を止める隙間の時間が勿体無いと考えて勉強しかしていないようである。映画を観に行く時間が勿体無い、友達とのくだらないおしゃべりの時間も勿体無い、と。そんな人を見ると苦しくなるし、心の底から、もっと遊んでって思う。勉強のためだけを思って勉強ばっかりしても甲斐無いよって。そこに勉強の時間を少し縮めてでも他のことをする時間を十分にとって、それはそれで思いっきりエンジョイした方がいいよ、って思うわけですよ。そのほうがきっと勉強面でも効果あるよって。

例えば一枚のポリ袋に横幅がキツキツでギリギリのものを無理やり詰める時、その詰める物体の片側を袋に入れて、袋のもう片方を物体のもう片側に引っ張り上げて、で袋の逆側をまた引っ張って物体を押し込んで、また逆側を引っ張って、ということをするだろう。そんなように、脳に関しても、勉強とその他の芸術や運動などを両方バランスよくやって、脳をバランスよく引き伸ばして容量を大きくしないと勉強の成果全てが入りきることができないのではないだろうか。

きついジーンズを履くときも、ストッキングを履くときも、片足を少し入れて引っ張って、もう片足を少し入れて引っ張り上げて、と左右変わりばんこにだんだん入れるとうまく履ける、そんなような脳のキャパのイメージがある、、、。