一欠片の土地

4年間過ごした場所から引っ越した。初めての一人暮らしでその土地に住み始めたのは18歳の時。そこで過ごした時間である程度今の自分が完成されたと思う。人には完成なんてなくて、常に成長して行くものだろうけれど、そもそもその歩みを始められたというもっと根本的な意味で。それまでは自分はまだないみたいなものだった。まだあまちゃんなべいびーちゃんだった。出身が田舎だったのは大きいと思うけど、外界とあまり接さずにさなぎの中でぬくぬくとしていたような感じだった。だからこそ最初は自分が外にむき出しにされたような気がして不安定になったし、あらわになったようでぴりぴりした。

でもそれを経て、青年期のアイデンティティの拡散も通り越して、自分ができた。まだまだだけど。

だからその土地は、なくては自分が完成に至らなかったピースなのではないか、と思ってしまう。そのピースがはまったから、今は多少だけど自分の輪郭がはっきりして、自分を持っていると思うことができる。

ピースオブミー、私のパーツ、一欠片。

みんなそんな土地があるのかしら。自分にはまるそのピースの土地と出会えなければその人は完成しないままなのかしら。それとも土地は関係なく、年齢的な作用に場所の思い出がくっついてるだけなのかな、、。それが自分はたまたまそこだっただけなんだろうか。

自分にはまるパーツの土地と出会えなければその人は完成しないままなのかしら。自分の一欠片の土地に出会えずに彷徨っているような人も、いるような気がする、するけれど、それは土地ではなくて思い出とか経験といったものの欠如なんだろか。

たくさんの出来事があった。一人で行動できるようになった。いろんな人と出会った。自分の時間が見つけられるようになった。いっぱいの思い出が私を作っている。それはそうなんだけど、もちろんその思い出それぞれもピースオブミーになってるんだけど。でもその土地というピースがそれを可能にしたような。その思い出がその土地でのものだからっていうだけのことじゃないような、。

Piece of me. Part of me.

pieceだとパズルのピースのような私という全体の1ピースを指しているニュアンスで、partだともう私の一部分となっているその部分、といった感じがする。どっちなんだろ、、でもその土地を離れると今度は自分の少しを失うような感じがして、それは当然のことだよな。そして新しい土地でもまた最初はひりひりしながらもさらに厚い自分を作っていくんだろう、、。

過ごした場所がそこでなければ今の自分にはなっていないと思う。それはもちろんそう。それよりさらに、そこでなければ自分はそもそも「なって」ない気がする、そんな不思議な感じなの、わからないよね、、、。そんなことないのかな。書き留めておかないと前者の思いになってしまう気がして書いたけど、全然うまく書けなかったや。

でもとりあえず、置いていくことになってもぎ取られてしまった欠片もあるけど、その欠片のイメージ、像、雰囲気、色彩、あるいは記憶、何かは持って出た。それでももしかしたらこれからまだべいびーちゃんだったって思い知らされるかもしれない。

時間くゆらせる

1日に一本も吸わない煙草。

ニコチン中毒ではないし、1日に何本も吸うわけでもない。ふとタバコを吸いたくなるときに吸う。たばコミュニケーションは求めてないし、人と喋りながら吸うわけではなく、なんなら家で、誰もいない一人の時間で静かに吸いたい。

強いて言うなら、何か流れて行くものを求めて吸うのだと思う。感情が高まってる時でも落ち込んでる時でも、共通してるのはぐるぐるしてるとき、停滞してるような時に吸いたくなる気がする。溜まってしまったものをガス抜きをする感じに、息をふうとはくことが重なる。口から白い煙が出て行って外気に、空に、風景に溶けて混じって行くのを見ることに何か浄化作用があるのかもしれない。過呼吸になった時も息を吐くことが大事って言うけど、人間息を吐くことって大事で、それを意識せず意識できる。

煙がくゆって行くのを見るのは結構好き。前にも、洗い物をしているときなど、水の流れに接している時には夢を思い出したり、ふと何かを考えつくことがあると語った気がする。煙が自由に泳ぐように流れて行くのは、そんなのに似た感じ、でもそれよりも暗くて夜の感じが強いものなのかもしれない。

息を吸って吐くと言う動作も関係すると思う。息をすることを思い出すような、息ができるってことを思い出すような、そんな感覚。リメンバートゥーブリーズアゲン。小さい時に見た夢を思い出したんだけど、夢の中で自分は水中にいて、息を止めてるけど、「まって、ここなら息が吸えるっけ」と思って、鼻から吸って見たら「え、私、水中でもそういえば息できたやん」って気づく、みたいな、そんな感じ。(これって胎児の時の、羊水の中での記憶が意識に浮かび上がってきてる夢なのかな。)それでその感じは、そういえばそんな夢を子供の時に見たなってことを、タバコを吸ってたらふと思い出したりするっていうようなこととそのままつながる。その時に頭の中を占めていることのどこと繋がるとも繋がらないようなゆるりとした記憶や、はっきりとではなくて煙のように薄いような感覚を思い出したりする。

流すっていうのと矛盾するかもしれないけどずっと先に先にって急いでいるのを少し一休みする時間に逃れる感じ。でも、ただ逃げてはぐらかすんじゃなくて、時間をくゆらせる。停滞中の思いや考えを前のめりに流すんじゃなくて、意識しなくなって、それで知らぬ間にちょっと流れて行く。煙草をふかして、ぼーっと休められてるとしたら、それはそれで大事なんだと思う。

て言って、そんないつも息できないほど詰まってるわけでもないんだけど、ただ流れるものに触れたいと言う気持ちがたまに来るんだと思う。

 

tachitochigaguru.hatenablog.com

 

ちょっとたばこについて前に触れてた

 

tachitochigaguru.hatenablog.com

 

本の痕跡

友人が本を貸してくれる時に、貼ってあったいくつかの付箋を取ろうとしてくれたので、慌てて止めた。もしかしたら一周読む時だけ何かの覚えとして貼ったのかもしれないが、借りる身分なので、その人がいつかその本をもう一回読んだ時に、ついてた方がいいんじゃないの?!そんなの取っちゃっていいの?!と思って。
メルカリで本を中古で売った時に、自分が過去に書き込みをしてた箇所を何個か見つけたので消しゴムで消した。でもその本は学術の本で、書き込みは自分が思って書き留めたそのページの要点だったので、これは消さないでいた方が買った人が読む時に助かるんじゃない??なんて思った。

私だったら、そんな書き込み、消さないで欲しい。むしろバンバン書き残して欲しい。なんなら線引いてあるところとかもあったら、そこに注意を向けれそう。難しい本って全然集中できないし、読んでも文字だけがするする滑っていってしまうから、付箋やメモ書きや線なんかが残っていたら、それが引っかかりになって滑らずに頭に留めれるような気がする。そんな痕跡は、知り合いから借りた本だとその人がどんな風にその本を読んだのかがわかる感じがして、少し覗き見のような罪悪感を伴いながらも、でもその感じが想像されて微笑ましく心地よい。中古の本や図書館の本でもいい。どこの誰か知らない人だったとしてもその本を読んだ誰かがそこに注意を向けたってだけで、その本の中に何かほのかに光る一箇所ができたような感じがする。(そういえば図書館の本って最近は借りる時はピッだけど、昔は裏表紙の内側に借りた日付のハンコとか押されてた。それが恋愛のきっかけになる小説とか、あるよね)

いつか読んだ本に、筆者がたまたま手に入れた中古の雑誌の中に、一箇所切り抜かれているところがあって、そこの、切り取られてしまって今はもうない箇所に何があったのかが気になって、それを発見するべく色々と頑張る話が書かれていた。

もしも、本の中の一ページに何か、本と全く関係ないことが書かれていたら、例えば歌の歌詞や、お店の名前。それらの情報が宣伝とか広告にあるよりも、気になってしまう気がする。全てが開示されていなくて謎を含んでいるからだろうか、その情報が、平面では持ち得なかった魅力を持ち始めるというか。あるいはこの世界の中で、どこかの誰かが手をかけたという小さな小さなことが果てしない海の中で小さな光を灯らせて際立たせられるというか。

広い広い土地を、どこから掘ればいいかわからないけど、誰かが少しだけスコップで掘った後があって、そこから始めてみるか、と。宝が埋まってる確証もないし、いいかどうかわからないけど、なんだか、ほかの平面よりも少しだけ温もりが残っているようで、思い入れが無意識に始まってしまうような。

タトゥーのメモ

今回はいつも以上に自分のための覚え書きとして。(割と真面目で面白くはないかも。てかこっ恥ずかしい。)

 

タトゥーを入れる。ホワイトタトゥーにしたい。肌から少し浮くような、綺麗な白で。時が経ってだんだんぱきっとした白から、薄れて肌に馴染んで行くのもいいなあ、と。デザインもあらかた決まっている。一艘の帆を張ったヨット、波、風、星。星は9つにしようかな、9という数字に思い入れがあるから。

9月に誕生日が来て22歳になる前に。来年の誕生日にはもう社会人で、住む場所も生活も変わっているだろうし、何もかも想像がつかない。でも心に余裕がない人にはなっていませんように。いつだって自分は何にも縛られてないし自由だってことを忘れていませんように。それを見ていつも思い出せるように、刻む。いつも誕生日に願うこと、こども心をいつまでも持っていながら、楽しく、かっこよく、心の広い、素敵な大人になりたい(めっちゃ欲張りだな笑)。あとは21歳の今のこの感覚、何にも繋がれていないし、何でもできる、何もしなくてもいい、楽しいことに奔放に、大きなことを考えて突き動かされたりもする、この今を忘れたくない。

と言いつつまだまだ欲張りな話が続く、、

最近新しく加わった、こんな風、っていうなりたいイメージがある。それは「風が吹き抜ける人」というイメージ。英語で言うとbreezyというか、、。自然というか、素直というか、肩肘張ったり溜め込んだり気を張りすぎたりせずに、なんかいい感じにものが通って流れてゆくことができる心身でいたいなあ、と。頑と強い訳でも、細くて倒れる訳でもなく、ねちねちひっつく訳でもぐねぐね曲がる訳でもなく、凛と立ちながら流れを止めてしまわないよう、流れ続けるように風通しをよくする。日本語の美しい表現を使うと「しなやか」「たおやか」と似てるのだろうか。いまいち言葉で言い当てられないけど、これを思う時に出てくる絵はサーファーの年老いてはないけど若くもない女性、メイクもしてなくて髪も肌も日焼けしてるけどすごく健康的で美しく見える。立ち姿が綺麗で、波に乗っている姿はかっこいい、さっぱりしているけど暖かさがあって、、、という感じの人。(覚え書きとして書いてるのに、わかりにくいこと極まりないね、、笑)とりあえず、「風がすーっと吹き抜けられる人」っていうイメージがあるの。

また別の、こちらは一年前くらいに出現したもの。就活中に企業の人事の人と面談していて、自己分析とかを一緒にやらされた後に、ライフプランみたいなのを考えさせられて、その時に、「最終的に、最終目標としてはどんな人になりたいと思ってますか?」という感じの(多分みんなに共通して聞くのであろう)質問をされた。きっとこんなことを成し遂げたいです、とか、こんな風に生きていきたいです、とかそんなのが答えとして期待されていたんだろうけど、その時自分の教授の哲学者ぶりに感銘を受けていた私は「頭の中が広い人になりたいです」と。年をとっても考えることをやめないで、いろんなことをオープンに受け入れて、自分なりに考えることができて、深く考えすすめることもできる、確かにこれはこれからも絶対に手放さず、というかこれからもっと深めて行きたいところだ。

上の二つはランダムな私のなりたい人像の話に思われるし、実際に心にかけ始めた時期も違うのだけど、タトゥーのデザインを考えている時に、ふと繋がって、なんだかしっくりときた。はたからみるとそのつながりは微妙に思われるかもだけど、私の中では、なんかぼんやりとしたものがふわっと繋がっている。(。。覚え書きだから笑)

今まで何とは無しに、流れるものに興味を持ってきた。ヨットには(タトゥーのデザインの意味の話に戻った)自分もヨットのように波に揺られて流れることのできる柔軟性、緩さ、を持っていたい、という気持ちもある。良い風を捕まえた時にはそれを活かして突っ走りたい。たまには流されるまま流されて見たり、たまには波が静まり風も凪いで星を見たりする。どこでもいけるし、何でもできる、かもしれない。その自由さがある。全部が自分の思うようになるという自由ではなく、他のものが色々絡み合って、因果や偶然もあり、どうなるかわからないけど、一瞬一瞬は自由に溢れているし、その次になんだってしたっていい、それも全部ひっくるめた自由。

そしてヨットはオタオタと周り任せで流されるだけじゃない。ヨットは、身軽でありながらもしっかりと自分自身(帆と船体)をもっていて、帆を高くあげ、波を超え進むことができる。私も周りの風や波に流され新しい出会いをしたり変わったりする。でもその流れる自分は自分なりの一歩一歩踏みしめてきた美学や哲学(そんなたいそうな名前がつけられたものではないような小さな嗜好や思考たちのこと。)や感性を持っている。だからこそ漂えるし波に流されたり風に乗れたりする。この、積み上げられてきたもの、ヨットで言うと一本一本釘を打たれ、板から作られた船体、一針一針縫い合わせて掲げられた帆を磨き、繕い、新しく交換して行きたい。それが今までで作り上げられた自分の完全体だと慈しんで行きたい。そしたら日にさらされ風に吹かれ、もっともっといい風合いになるだろう。船ほど大きくて頑丈ではないけど、等身大のヨット。この子を心から愛しながら航海を続けたいと思う。

 

でもこんな色々な思いを込めたってそれを一つ一つ全部覚えてたりはしないだろう。そんないろんな思いが全部入り混じってひっくるまってチャームとして体に刻まれる、ってのがタトゥーのいいところなんだから。今言葉にした色々も、それは私が無理やり言葉にしたのかもしれないけど。タトゥーに込めたたくさんの意味の個々の境界線がだんだんとぼんやりとなって消えて行って、一つ一つの話としては、さらには言葉としても、思い出せなくなっても、「なんとなくのほわんとした思い」みたいな感じが残って、刻まれたところに、ずっと居続ければいいな、なんて思う。

 

「ねえこれよ、これだけであなたは航海しようとしてるのよ。素敵でしょ、ミワーン。」

パンと曖昧さと余白

10を言わずに1しか言わない人になりたい、、。

最高に美味しいクロワッサンダマンドを食べて、これを好きそうな子が思い浮かび、今度機会があったらなんでもない日に急に買って持ってってあげよう、と考えた。で、そんなシーンを脳内で生成しながら、なんでそれをあげたいと思ったかの理由が列挙されていく。「あなたはクロワッサンが好きでしょ、さらにはさっくり系のクロワッサンが好きでしょ、そんでメロンパンの上の部分が好きだから、クッキー生地がしっかり乗っている、というかもはや過剰なクッキー生地にクロワッサンが包まれているこれはパーフェクト、でこれを食べて過去一で美味しいと思ったから、いろんなパン屋さんのパンを食べてみるのも好きなあなたにあげようと思ったの!!」

でもそんなの全部言ったら理由が重たすぎてそのクロワッサンダマンドを食べたときに純粋に感じるかもしれないキラキラとした「美味しい」という感動を阻害してしまうんじゃないだろうか。でも、ただ偶々これを買ってきたんじゃなくて、こんなことを思ったから、ほかではないこれをあなたにあげたんだよ、って思う気持ちを伝えないと、逆に何も思われずに、ただのパンとして無感動で食べられてしまうかもしれない。そしてそのクロワッサンダマンドを食べた瞬間にこれはあの子にあげたいとピンときたことや色々を、私だったら全部とは言わずとも多少、喋ってしまうと思う。

でもそんな時にぐっと留まって、10を言わずに1しか言わない人になりたい。10を言ったとしたら、言われて受動的に理解しただろうことに、もし相手が気づかないとしても、いいって思える。相手が気づくかもしれないし、気づかないかもしれない、別のことを思うかもしれない、そんな分のスペースを空けたい。宙に置いた何かを、相手が受け取るかもしれないし、受け取らないかもしれない、使って何か別のことをするかもしれないし、誰かに投げるかもしれない、そんな可能性をたっくさん広げておくことができる人になりたい。子供におもちゃを渡す時だって、どんな風に使うものなのか最初から説明して、その子が自身でそれを自由に使って遊ぶ無限大の可能性を消してしまう人にはなりたくない。

私は割といろんなことを考えたり、思いついたりするけど、その欠点は、せっかく考えたこと、思いついたことをしまっておくことが苦手で、たっくさん喋りたくなってしまうこと。

曖昧なことを大事にしたい、曖昧さや混沌を、白黒つけてはっきりさせてしまうだけでなくて、白黒つけてしまったら掬い切れないようなマーブルや中間色、言葉にできないものを大事にしたい、と日々考えている。、、はずなのに、なかなか自身はミステリアスにはなれない。どちらかというと全てを明るみに出す勢いで何でも相手に言ってしまう。

10を言わずにいること、9も8も言わずに1か2しか言わないこと。それは押し付けがましくならないことで、それは相手がどうとでもできる何もないスペースをあけておくということかもしれない。相手にそんな空間を残しておくことは、自分にはどういう結果になるのかわからないというわからなさ、曖昧さを残してしまう、と言えるだろうか。相手に何にもなりうる余白的な空間を手渡すには、つまり自身が曖昧なものをかかえ持つためには、余裕が必要なんだと思う。

 

パンつながりでつなげて話すと、食パンは焼く派だ。食パンを焼いたすぐ後にお皿にのせると、湯気がお皿との間に挟まって、食パンの下の面がしっとりとしてしまう。それが嫌いだから焼いたパンをお皿に乗せる時に絶対に何かを挟んでおく、という子がいた。私も確かにふちのあるお皿だと、ふちにパンの端を引っ掛けてお皿に下の面がつかないようにすることがある。

でも、それについて考えている時にふと、パンに対して「あ〜きみ、ちょっとしっとりしちゃったのね」って思うと面白くなってきた。手がいつも汗でしっとりしているのをよくからかわれていた同級生を思い出す。そう思うと湿ってしまった食パンも嫌だと思わず、むしろ愛嬌があって愛しくなってきた。他にも、いろんな物体の不具合に人間性を見てとったら嫌だと思っていたことも許せるだけでなくて楽しく思える気がする。

当然のことだが、パンは喋らない。先の話でいうと、「10を言わずに1しか言わない」どころか、0だ。提示されるものは余白だらけどころか、そこには色づいていない何でもできるスペースしかない。それは私が説明を入れれる場所でもあり、空想を入れて楽しめる場所でもあるのではないか、と思う。

喋らないものが世の中にどれだけあるかを考えると、それらが与えてくれる何もない空間も膨大にあるのではないか、と気づく。まだ何もない、けれど何でも生まれうる曖昧で未知な空間は世界中にあって、それは物理的な空間ではない、途方も無いくらい大きな空間、余白なのではないだろうか。その充分すぎる充分さに思いを馳せると、余裕が生まれてくる。自身が曖昧なものをかかえ持つことができる余裕。すると、相手に何にもなりうる余白的な空間を手渡すことがよりナチュラルにできるようになるかもしれない。

こうやって思考はめぐって、パンもめぐる、、?

 

キャンドルが作らない無の時間

サウナで調子を整えたりランニングすることって、肉体を追い込んで頭を無心にすることを許すっていう意味があるんじゃないかしら。お酒を飲むことも、アルコールの力を借りてわざと頭をモヤっとさせて何も考えなくていいようにする。体に悪影響を与えているという意味ではこれも肉体を追い込んでいると言えて一緒かも。

わざわざ体を追い込んで、頭を空にする、頭を整理する時間を作っているとしたら、それは他の時間がいっぱいいっぱいだからかもしれない。物理的に忙しくなくても頭は忙しい。情報が常に行き交っていて起きている間はずっとそれを取り入れているから。

でも逆に何もない時間ってなんとなく不安になって、訳もなくSNSを見て、さらに満たされない気持ちになってしまう。よね。

最近たまにキャンドルを灯している。キャンドルって風とかなくても灯が揺らぐのね、とっても。縦に速く揺れたり、横にゆらゆら揺れたり、しばらく全く動かなくなったり。ああ、これだったら何もない時間も恐怖にはならないで、ぼーっとできるのではないかなーって思った。電球のライトに照らされる部屋の中だと、何もない時間って、移ろうものもないからほんとに何もない、、。無の不変、不変の無。自然に囲まれていたら、何もない時間の中にも何か揺らぐものがある。家の隣の保育園から子供の声が聞こえてくる、元気だなとか嬉しいとかまで思ったりする訳じゃないけど、いいか悪いかで言うとなんとなくよく存在を感じる。

不変じゃない。流れを感じる。そんな中だから安心して頭を空にすることができるのではないだろうか。でも、流れを感じない無の時間が嫌だから日々頭にものを流し続けて詰め込み続ける。でもそれらから解放されるひとときはやっぱり必要で、でも今では無の時間は怖くてそれに罪悪感を感じるからあえて肉体を追い込んでその時間を作ることが流行っていたりしたりする?タバコは中身だけでなく吸う動作が、あの火が燃えて息を吸って吐いて煙が出るという鼻や口のなかで空気が流れることが安心させ頭を空にする時間を作り、疲れた人の頭を少し解放できるのでは。

そんな中で別の可能性を感じるのは手仕事の時間だ。手仕事をしている時の無心感。あれは肉体を追い込むのとも違う、周りで自然が流れているから安心できるのとも違う、頭を空にし心を落ち着ける方法だったりしないだろうか。自分の手元では時が流れていて何かが達成されている。没頭できる時。そんな時間を守るために、常に音声メディアを流しているのはよくないのかもしれない。耳が空いているのが勿体無いと思ったり、情報に惹かれてしまったりはするけど、でも耳に言葉を入れることは頭を使うことでもあるから、休みを入れることも大事かもしれない。

友人がブランド立ち上げを企画していて、キャンドルが作る空間を推している。それに影響されて私もキャンドルをたまにつけるようになって。ある日寝る前にベッドサイドのライトとキャンドルをつけながら本を読んでいて、読み終わった後にベッドサイドのライトを消した後、灯りがキャンドルだけになり、その揺れる光が壁にうつる仄暗い部屋でふと思ったこと。

思考の空気抵抗

映画を見た後のしばらく余韻に浸る時間、あれは私にとって飴玉を口の中で転がす感覚と通じるものがある。映画館を出て、体は日常の世界に戻り、頭の中では、寒いな、とかご飯どうしようか、と浮かび上がってくる現実の感覚と、見た映画についてぼんやりと考える思考が混ざり合う。一つの答えや解釈を求めるわけではなく、頭の中でさっき見たいろんなシーンに飛んで、あのシーンのあの描写はあれがモチーフなんだろうか、とかあそこに出てきたあのアイテムはなんの意味があったんだろう、とか、どちらかというと細部の小さな事柄にちょっとずつ思いをはせる。飴玉を口の中であっちにコロコロ、こっちにコロコロしながら舐める感じ。飴玉は外の空気に触れず、私の中で消えていく。同じようにそれらの色々考えたことは、別にどれにも答えが出るわけでもなく、私がふわっと思ったまま、そのままだんだんと消えていく。

 その感じはあの情景とも似てるかもしれない。軽い羽が落ちるときに、上から下に向かって落ちるのだけど空気抵抗によってあっちにひらっと、こっちにひらっとしながら舞い落ちてくる感じ。結局落ちてはしまうんだけど、地上に辿りついてしまうことを惜しむように、空中にいる間にふらっふらっと寄り道をしながら落ちる。

 映画についてはストーリーのあらすじや、大きなテーマはもちろんあるし、監督のメッセージや意図もあるだろう。でもそれらの解釈をすぐに検索してしまうのはもったいない気がしてしまう。何かを感覚で受け取って、それについて考えるときには、自分しか気づかないような何かだったり、自分しかそこにそれを感じないだろうという特別な何かがあるだろうけど、それらが大きなものに巻き込まれて忘れられてしまう、あるいは気付かれにくくなってしまうから。一つのものを探し求めることは、解を絞り出すことであって、実は絞り出されたもの以外が、あなたオンリーの、特別なものになりうるのに、それらの微々たるオリジナルに注目がいかなくなってしまう。

 とっても大雑把な言い方をすると、私たちみんなこの世に生まれた人間だから、多少の違いはあれど、大まかな考え方や思うことってだいたい似ているだろう。(何か思ったことがあっても、絶対誰かは似たようなことを考えているし、先人もいる。)スペシャルなオリジナリティーが現れうるのは、大きな流れに沿いつつも、その中で生じた小さな小さな差異に心を割くときなのではないかな、と思う。

 大きな道に沿って歩く中で、たまに横道に逸れて、誰も入った痕跡がない土に足跡をつけてくる。少し寄り道して、果てしなく小さくてもいいから、自分だけの、自分が作り出した場所を持たせることが大事なのではないだろうか。(そしてもしそれが人に伝わったら、他の人の作った場所と繋がったら、それはちょっとだけより豊かなものになるかもしれない。昔の人たちが昔話を聞き伝えていく過程で独自の語り方をしたり、勝手な好みでちょっとした付け足しをしてだんだんと尾ひれがついていったように。)

 映画の感想も、誰にも言わなくても、あのシーンのあの場面のあの人があの動作をしていてあの表情の後ろにあれが写っているその意味、なんていうことをふわっと思えたら愛が芽生えて万歳。そんな記憶もいずれ忘れてしまっても、飴玉が後味だけを残して消えてしまうように、愛だけは残っていくだろう。(究極的には人生において個々の事柄は忘れてしまっても、自分が作り出した場所に対して生まれた愛という形無きものが集合して世界が愛溢れるものになっていくんじゃないか、なんて。)大きな発明でも、探し求めた問いの答えでもなくても、ひらっと予想外の動きをして自分だけの思考を育てたい。舞い落ちる羽を落ちる前に左右にひらめかせ空中に留める空気抵抗のようなものを大事にしていきたい。